#博徒
                   

清 水 一 家 二 十 八 人 衆


次郎長は清水が産んだ偉大な民衆のヒーローです。文政3年(1820)清水港巴川沿いの旧家に生まれ、明治26年(1893)波止場の舟宿「末廣」で幕を閉じるまでの74年の生涯は、
文字通り波乱に満ちたドラマでした。

清水次郎長

次郎長肖像
文政三年一月一日生まれ、本名・山本長五郎、駿河の国清水の持ち船船頭・高木三右衛門の次男に生まれました。三右衛門は、「雲見ずの三右衛門」の異名をもち、 雲行きなどをきにしない剛胆な男であったといわれています。
次郎長はそんな父親の気質を色濃く受け継ぎました。生まれてすぐ米穀商「甲田屋」を営む叔父・山本次郎八の養子となります。近所のこどもたちから「次郎八の子の 長五郎」を縮めて「次郎長」と呼ばれるようになりました。
9歳の頃寺子屋で読み書きを学ぶが、いたずらや喧嘩が多く退塾させられている。その翌年、町内でも暴れん坊だった次郎長は、粗暴な性格を治すため、由比倉沢の叔父 の元に預けられます。15歳になった次郎長は性格も落ち着き、
甲田屋に戻りますが、江戸に行こうとして許されなかったことをきっかけに、店の金百両を持って 家出、家長次郎八に勘当され江戸に向かいますが、
江戸に辿り着く前の道中でいざこざがあり浜松へ、この時点で商売の才能に目覚めていた次郎長は、浜松の米相場で商売に大成功し、その年のうちに清水へ大金を持って戻り知り合い を驚かせたそうです。
弘化4年(1847)28歳で結婚しますが、賭場のいざこざで人を斬ってしまい、米屋の株を尾根夫婦に譲って妻とも離縁をし無一文となって旅に出ることに。 三年ほどの逃亡生活の途中、自分が斬ったはずの人とばったり出くわしたのでした。すると相手は「あのときは自分が悪かった」と謝るを見て、自分が凶状持ちでないことを知る。 喜んで清水に帰る途中、庵原川で地元の二大勢力である和田島一家と津向一家の出入りに出くわし仲裁に入る。次郎長が名をあげて一家を成すようになったのは、和田島の太右衛門と津向(つむぎ)の文吉の対立を庵原川で仲裁してからでした。その時、津向の文吉から「お前はいい男だ、きっと名を上げてくれよ」と言われ、文吉親分との長い付き合いが始まりました。 それから次郎長は一家を立ち上げ、清水港仲町妙慶寺門前に初代お蝶を迎え世帯を持ちます。当時の子分は十人ほどで、家計は火の車。夏に次郎長一家には蚊帳が一つしかありません。初代のお蝶が嫁入りの時持参したものですが、次郎長はそれを使っては ならないと厳命します。「家の中は皆平等だ 俺たちだって一緒に蚊に食われようじゃないか」そのかわりに子分に妙慶寺の杉の小枝を折ってこさせ、七輪に載せて蚊燻にします。おかげで妙慶寺の杉は丸坊主に なってしまったとか。慶応4年3月、
次郎長がかつて助けた相撲取りで八尾ヶ惣七こと保下田の久六に裏切られ、深見村長兵衛に兇状旅の途中助けられたのを保下田の久六の逆恨みから長兵衛が役所で攻め殺された仇を翌年乙川の喧嘩 で久六を討ちます。万延元年、久六斬りの
祈願成就のお礼参りに、子分の森の石松を金毘羅に代参させると、その帰途、石松は都田村の吉兵衛三兄弟の騙し討ちに遭いました。文久2年の暮れに次郎長は石松のあだ を討って、さらに勢力を広げます。
そんな次郎長の前に立ちはだかったのが、甲斐の博徒・黒駒の勝蔵。次郎長はこれに「28人衆」と呼ばれる子分たちとともに立ち向かい、とりわけ慶応2年(1866)の荒神山 の決闘は、日本一の大喧嘩として
知られました。 28人衆という呼び名は後世の創作ですが、子分として『東海遊侠伝』に記される男たちはほとんどが実在します。 たとえば大政(後の次郎長の後継者・
原田政五郎)、小政(吉川冬吉)、森の石松、桶屋の鬼吉、関東の綱五郎、法印の大五郎、辻の勝五郎などなど。慶応4年(1868)3月、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍を破った 新政府軍が進軍してくると、
街道警固役に任じられます。やがて旧幕府軍の脱走艦隊のうち、咸臨丸が暴風雨に遭って清水港に寄港したところを、新政府軍によって乗組員が全員討たれました。新政府 軍は旧幕兵の遺体の埋葬を許
しませんでしたが、次郎長は「死んだら仏だ。官軍も賊軍もない」とこれを手厚く埋葬します。これを知った元幕臣で静岡県知事山岡鉄舟は次郎長に感謝し、以後、 次郎長は博打をやめ、山岡や
榎本武揚と交際するようになりました。その後、次郎長は実業家として活躍し、清水港の改修工事、開墾、私塾における英語教育に尽力したといいます。明治26年(1893)、 没。・・・・次郎長の家系図

大 政

尾張藩槍組の小頭、山本流の使い手・山本政五郎とはフィクションで、講談の三代目神田伯山の創作であるとされている。体が大きいので「清水の大政、大きな喧嘩は大政だが、 小さな喧嘩は小政に限る」というのも二代目広沢虎造の浪曲の一節。
実際の大政という人は、愛知県回船問屋の長男で、実名は原田熊造というらしい。本来なら回船問屋の経営者となった人で、性格は温厚で子分たちの間でも人望があった様である。 次郎長の養子となり、跡目を継ぐはずだったが病気のため50歳という若さでこの世を去り、そのあと天田五郎が急遽帰って来て、大政に変わり次郎長の養子となった。
次郎長の後継者として、山本五郎の名で入籍し養子となっている。あの虎造の浪花節でも「本名、山本政五郎」だ。身体が大きかったので大政と呼ばれた。梅蔭寺の次郎長 遺物館には次郎長と大政の着た胴着が並んで展示されているが、
大政のは次郎長のより遥かに大きく、特大のLLである。体格が大きかったばかりでなく、パワーも人並みはずれていた。数多くの武勇談があるが、中でも荒神山(三重県) の決闘で敵将門井門之助を討ち取った話しが有名だ。
元は名古屋生まれの田舎の力士で、身長が「六尺以上(約181cm)の大男だったとする記録もある。
 慶応2年4月、縄張り争いに決着をつけようと荒神山に対峙した両軍、安濃徳一派の総勢は130人、大政と吉良の仁吉が率いる清水一家は22人。敵の銃弾に倒れた仁吉を助けよう と大政が走り寄る途中、石につまずいて転倒、
それを見た敵将門之助が、刀をふりかざして襲いかかる。起き上がる間も無く、大政は槍で門之助を一突きし、倒れた門之助の股間から背中にかけて 槍で串刺しにして仕留める。大政が「門之助を討ち取ったぞ!」というと大将がやられたとあって、敵方安納徳一派は散りじりになって逃げたという。
大政の孫で長吉という人は、大政に生写しで「大政が見たければ長吉を見よ」と言われたそうである。その長吉が静岡で鐵工所を創業、長吉が創業した鉄鋼所は隆々発展し 後にトヨタグループの「豊田精機株式会社」となった。

小 政

浜松の魚売りのせがれ、父親に煩われ食うことができない、しじみを売って親孝行。お上から三度褒美をいただいたが、十三の暮れに父親に死なれて、なんとか焼けだと言って ヤクザになって次郎長の子分。体が小さいから人が
馬鹿にしていけない、こういう家業は馬鹿にされちゃあ男になれない、剣術を習おう、並大抵の剣術じゃダメということで居合切を習った、「山椒は小粒でもピリリと辛いよ、 大きな喧嘩は大政だが、小さな喧嘩は小政に限る」
というのも、広沢虎造の浪曲の一節である。本名。吉川冬吉、大政が181cmの大柄に対して、小政は四尺八寸(145cm)の低身長であったとし、「居合術に熟達し、三尺の刀を常に用ふ、敏捷精桿無比といはれた」 とその特徴を描写する。小政が、明治になって清水一家を離れた原因の一つに次郎長の二代目妻のお蝶の暗殺事件がある。明治2年5月22日、次郎長は三河に出かけ、留守を任された大政ら子分も外出した昼過ぎの隙を見透かしたように一人の武士が清水一家を訪ねた。そして玄関で、絹の行商人と値段のやり取りに興じていたお蝶を襲い、斬殺した。お蝶は黒駒勝蔵一派の襲撃と錯覚して、武士に向かい、行商人は素人であるから斬るなと叫んだという。お蝶が殺されたと知った大政、小政の子分たちはその武士を探して出して殺害した。その武士は久能山付近に集結した旧幕府脱走隊の新番組隊士の「山崎某」だった。同志を殺害された新番組隊士らは清水一家に報復を計画した。急ぎ清水に戻った次郎長は騒動鎮静のため、子分たちの軽挙妄動を厳しく諫め、謝罪した。しかし博徒の掟から言えば、姐さんを一方的に殺害され、仇を討ったにも拘わらず、こちらから謝るのは筋目が違うと小政は次郎長のやり方に不満が残った。特に慓悍殺伐の性格の小政は、次郎長子飼いの養子にも拘わらず、親分の「改心」に納得できず、次郎長に背き、喧嘩沙汰を起こして相手を殺害、収監され、釈放後、故郷の浜松に戻り、博打に明け暮れた。 賭博罪で逮捕され明治7年5月29日、浜松監獄で獄中死去。没年満32歳。

益川仙右衛門

仙右衛門は出身地を名前の頭につけて増川の仙右衛門と呼ばれる。増川はかつての富士郡須津村の内、今は富士市内の地名である。  天保7年(1836年)、宮下佐次郎の長男に生まれた。
父佐次郎は、戸籍の記載には「駿河国富士郡増川村百姓」(勝瀬光安遺稿より)とある。田畑持ちであると同時に、ばくち打ちの貸元、つまり土地の親分であった。仙右衛門 が36歳の時、縄張争いのことから、父佐次郎が、伊豆の
金平親分の子分、竹之助、民五郎、力松、亀吉、竹五郎ら17人に襲われ、殺害された。金平というのは、「東海遊侠伝」にも登場する人物で、石松をだまし討ちした都鳥吉兵衛の味方、 つまり次郎長の敵であり、沼津から船に乗って清水を襲撃しようとしたことがある。この時は次郎長に一喝されて逃げ帰っている。
その金平の身内の竹五郎を秋葉山の火祭りで、辻の五郎の助けを受け父・佐次郎の仇を見事に討ち果たした。その義侠が次郎長の知るところとなり、後年辻の五郎と増川の仙右衛門は、 次郎長一家の身内となる。

森の石松

次郎長の子分として幕末期に活躍した侠客、出身地は三洲半原村とも遠州森町村とも伝えられているが定かではない。浪曲では「福田屋」という宿屋のせがれ、父親とは子供の 頃に死に別れ孤児となった石松は侠客の森の五郎に拾われて
育てられた。ヤクザ同志の喧嘩で人を斬り、次郎長に匿われて子分となった。大酒飲みで荒くれだが義理人情に厚い。病で妻に先立たれた次郎長と宿敵・悪玉ヤクザ保下田の 九六と悪代官・竹垣三郎兵衛を討ち果たし、斬った刀を次郎長
の代参で金毘羅宮へ納めた帰りに、見受け山の鎌太郎から預かった香典百両を都鳥吉兵衛に騙し取られ、それを取り戻しに行き騙し討ちにあって 閻魔堂の前で殺される。都鳥吉兵衛以下十人 は文久二年の十二月の末に次郎長一家により討ち果たされる
「追分け宿・石松の仇討ち」

大瀬の半五郎

文政5年、武蔵国多摩郡上椚田村落合の八王子千人同心を勤める鈴木惣七の息子、つまり鈴木家の六代目・綱之助として生まれる。一説よると、この大瀬半五郎と関東綱五郎とは同一人物説がうかびあがっている。 1866年5月22日(慶応2年4月8日)、伊勢国荒神山 (現在の三重県鈴鹿市高塚町観音寺)で勃発した「荒神山の喧嘩」
では、大政が率いる本隊に対する別働隊として、綱五郎は甲斐国八代郡上黒駒村の黒駒勝蔵(1832年 - 1871年)らを制圧するために隊を組んで甲斐・信濃へ転戦しており、この2隊 が三河国幡豆郡寺津村(現在の愛知県西尾市寺津町)で合流し、
吉良の仁吉を先頭に荒神山へ向かったという[。荒神山では、黒駒勝蔵一家穴太徳一家の連合軍と戦闘、仁吉を失ったものの、勝利を収めた。

実録・荒神山の血闘

法印大五郎

天保11年正月3日甲斐国八代群二之宮村の百姓の角田久作の次男として生まれる。「法院」とは「法院大和尚位」の略であり、法眼、法橋の上位として定められたものであるが、勝手に 僧号を称したり、ついには山伏や祈祷師を指すように変化していた。
法院大五郎は、大前田大五郎や大前田一家の江戸屋虎五郎、あるいは吉良仁吉同様に草相撲出身でもあるという。法院は人並み外れた巨漢であった、寺子屋に学び、数え15歳の頃は 甲府八日村にあった魚市場の担ぎ人足になり、19歳には人足を辞めて
二之宮村の実家に帰り農業を手伝っていたが、吃安こと竹居安五郎の子分となるが、女癖が悪く安五郎に坊主にされ、この坊主頭が「法院」の由来となり、体裁をつぐなうためため山伏 の姿をしただけで、実際に山伏であったわけではなかった。増川仙右衛門の父親の敵討ちに力を貸したことから次郎長の子分となる。 本名:伊藤甚右衛門 1840年〜1919年(法院大五郎・秋葉の火祭り・広沢虎造)

小松村の七五郎

虎造の浪曲では、石松の親父と七五郎の親父とは隣同士で宿屋をしていて、親父同士仲が良かったから、息子同士が仲がいい。この七五郎という人は「はんかぶち」という親分なしの子分 なしの貸元として女房のお民との仲良し
夫婦。石松が清水港の次郎長の子分になったことを喜び、次郎長に会いに行った。その時、こんないい人なら俺も盃を貰いてえと思った。石松 は酒飲んだら虎狼、もし無礼を働いて斬
らなくっちゃならない時は、わっしのところへ使いを出してください、わっしが石の代わりに死にますから、
私を殺してでも石松を立派な男にしてく
ださい」というと、「次郎長と言う人は、念には念を入れる人、わっしの顔をしばらく見ていて、前に進んでなんと友達に情のある人だ、安心 なすっておくんなせえ、石松を立派な
男に仕上げて見せますから、安心なすっておくんなせえ」という次郎長の言葉を聞いて安心して帰る。石松の死後、次郎長の子分となり、一生命働きながら、石松の敵討ちは今日か明日かと首を長くして待っている。

浪曲・清水次郎長伝(広沢虎造)

桶屋の鬼吉

その名の通り桶作りをする男で、渡世人。森の石松共々次郎長一の子分を自認。石松同様に鬼瓦一家の横暴を見かねて次郎長の下に草鞋を脱ぎ、加担し、一家の仲間入りをする。清水港で出 会った森の石松とはよく似た性格の持ち主であり喧嘩友達になり、
何かあると張り合おうとするが、その分だけ勇み足も多い。やくざ嫌いの父・吉兵衛に桶屋稼業を継ぐように説得され、 次郎長からも堅気に戻る様に告げられて一度は堅気になる決心
をするが、未練があるのを察した吉兵衛の許しを得て一家の元に戻った。本名:桶屋の吉五郎1813年〜1887年

大野の鶴吉

尾張大野の鶴吉、旅籠「大野屋」の一人息子で勘当され向かいの「美濃屋」の呼び込みをやっている男。
保下田の久六襲撃の時、久六の行き先を探り次郎長たちに連絡を取る活躍をした。

相撲の常吉

相撲の常吉・五明の常八、1828年〜1912年。”相撲の常吉””お相撲の常”とも呼ばれ、生国は伊勢、相撲が強かったため ”相撲”の二字を冠された。大政始め博徒仲間には相撲経験者が多くいる中で”相撲が強い”というのだから、その実力は相当なものだった。次郎長の伝記として最も古く、一時は養子ともなっていた天田愚庵によって 著された「東海道遊侠伝」における相撲常の初登場は安政2年。相撲で鍛えた腕っ節で、石松殺しの敵、都鳥吉兵衛三兄弟仇討ち(文久元年)、荒神山の血闘(慶応2年)などの戦歴も華々しく、一家の重鎮 として次郎長を支えました。

関東の綱五郎

大瀬の半五郎と別人一説。 次郎長の生前に上梓された『東海遊侠伝』に「綱五郎、武州の産、初め半五郎と称す」とあり、関東綱五郎は大瀬半五郎であるとみなされているが[7][8]、藤田五郎によれば、埼玉県八潮市伊勢野の伊勢野天満宮の敷地にある光明寺跡墓地に「侠客大瀬半五郎之墓」があるという[18]。これは、1970年(昭和45年)4月、初代八潮村長であり埼玉県議会議員であった恩田理三郎(1904年 - 1991年)が建立したものである[18]。藤田によれば、「大瀬半五郎」は通称であり本名は大作 半五郎(おおさく はんごろう)といい、縁故者の大作信喜がその墓の荒廃を嘆いており、私財を投じて再建されたものであるという。半五郎の略歴については峯岸光太郎が調査した記録を墓所のある真言宗豊山派光明寺に収めたが、同寺は墓所再建後、1981年(昭和56年)3月末日までのある時期に廃された。同寺跡の近辺に「大瀬」(おおぜ)という地名が残っている

寺津の勘三郎

追分の三五郎

備前・岡山の侍くずれ、武家嫌ってヤクザになって次郎長の子分で清水二十八人衆の一人。追分が渡世場になって「追分三五郎」歳の頃なら三十一、二、縞の着物に一本刀、役者見るような
いい男だったそうです。これが追分宿の青木屋という茶屋旅籠でここのおひろという女中を相手に飲んでいるところへ、「今、次郎長一家がフグ毒で弱っている」という噂を聞き込んだ都鳥一家(都鳥吉兵衛、梅吉、
常吉以下四人、元保下田久六子分三人、本座村為吾郎)の十一人が、森の石松をうまく騙し討ちにしたものの、清水一家の報復を恐れ先制攻撃をかける目的で清水港追分宿の青木屋で腹ごしらえをしているのを察知、
すぐに様子を伺い次郎長に報告に走る。次郎長は十人の子分を引き連れ、青木屋に乗り込み石松の仇討ちをする

国定の金五郎

舞坂の冨五郎

田中の敬次郎

元国定一家3代目、荒神山の血闘で清水方の武器を調達、銃40丁、槍170幹。
明治2年、次郎長が三河へ出かけている間に二代目お蝶が久能新番組の 小暮半次郎に斬り殺されたとき、子分の田中の敬次郎がすぐに追いかけ打ち取ります。

三保の松五郎

村上元三の小説「次郎長三国志」に三保の豚松として登場、「清水二十八人衆」に数えられる三保の松五郎は実在した日本の侠客である。実際に独眼で片腕だったことから講談、浪曲、映画で 描かれる森の石松の設定は豚松からの流用とされる。地元出身者
を幹分として迎えない方針であった次郎長が豚松を例外としたのは、次郎長の父親と豚松の父親とが友人関係にあったからという。

四日市の敬太郎

問屋場の大熊

清水の岡吉

辻の勝五郎

加藤勝五郎、1836年〜没年不詳。侠客、辻の勝五郎は通称「辻勝」といい、本名を加藤勝五郎と言った。 辻の勝五郎は初め、大場の久八親分の兄弟分だった増川村の佐治郎の子分となったが、佐治郎は文久二年六月一三日、下田の赤鬼の金平の身内で、浪人者の竹五郎らによって暗殺された 佐治郎の倅で増川の仙右衛門は佐治郎の一の子分、辻の五郎とともに下田の竹五郎を佐治郎の仇として討った。この辻勝らの義侠が清水次郎長の知ることとなり、後年辻の五郎と増川の仙右衛門は 次郎長一家の身内となる。

鳥羽の熊

鳥羽の熊八、梶川藤次郎、1826年〜1908年

伊達の五郎

由比の松五郎

吉良の勘蔵

太田勘蔵、1840年〜1880年ー四代目吉良清。本名:太田勘蔵。幕末から明治にかけての侠客、清水一家二十八人衆、吉良一家二代目。

興津の清之助

東海道でも屈指の貸元・興津の清兵衛の息子、酒と女に現を抜かしている放蕩息子だったが、病弱の身である清兵衛の跡目を狙う代貸・定吉に清兵衛の命が奪われる事を知って我に返る。 興津の縄張りは清兵衛の望み通り次郎長が預かる事となり
、清之助も清兵衛のたっての願いで次郎長の子分となる

吉良の仁吉

義理人情に厚く若くして義理に斃れた仁吉は後世、人情ものの講談や浪花節、演劇や映画、演歌(兄弟仁義など)の題材として取り上げられる人物で、荒神山の喧嘩に吉五郎側として参加 した一人。喧嘩では勝利を収めたものの、鉄砲で撃たれた上、
斬られて死亡した。享年28歳。三洲吉良横須賀の没落武士の子として生まれ、無口だが腕っ節と相撲が強く、相撲の上の喧嘩で侠客の親分・寺津間之助に匿われたのがきっかけとなり、 18歳から3年間を次郎長の下で過ごした。次郎長とは兄弟の盃を
交わす仲となった後、吉良に帰り吉良一家を興した。侠客・穴太(あのう)徳次郎が、次郎長一家が世話をした伊勢の吉五郎の縄張りであった伊勢荒神山を奪ったため、徳次郎の 手下や岡っ引きの仲介をも断って、世に言う「荒神山の喧嘩」に乗り込んだ。

実録・荒神山の血闘

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清水一家二十八人衆

『次郎長翁を知る会」のホームページより多くの情報をいただきました。

生誕200年を超え・次郎長の魅力を探る

実録:荒神山の血闘

荒神山観音寺は伊勢巡礼二十二番の礼所。俗に紅葉山とも呼ばれる紅葉の名所でもある。いまは鈴鹿市に編入されている。幕末には亀山藩領、神戸藩領、それに幕府直轄領が複雑に入りくんでいるため犯罪者が
潜伏したり博徒が大賭場を開催したりする絶好の場所だった。この賭場を殲滅するには神戸、亀山、幕府代官などの相互の協力が必要となり、一藩での単独行動では他の藩領に逃亡するため手が出せなかった。
亀山藩でも『いつかはなんとかしなくては…』と議論になっていたのだが、そのときを待たずに争闘が勃発してしまった。俗に「荒神山の血闘」と云われる大喧嘩がこれである。この争闘の詳細な実録談は、
明治廿年ごろ位田武左衛門という博徒の老人が語ったものだが、これを当時鎮撫にあたった元亀山藩士が記録したものである。

【荒神山の血闘】
 これより昔、下総国から黒田屋勇蔵という一人の侠客が桑名城下にやってきた。綽名を平親王将門と名乗っており、子分は千人を越すとかなり法螺吹きでもある。彼は晩年に安濃屋徳次郎にその跡目を相続させ、
地盤を譲って剃髪し、墨衣をまとって何処ともなく立ち去っていった。
 安濃徳は黒田屋の地盤を引き継ぐと、信濃松本の浪人、角井門之助そして西国の浪人、福山喜内。さらに上野国生まれの浮浪熊五郎などを身近に集め、勢威を北伊勢および尾張、美濃、三河地方の博徒社会に広
げていった。

 そのころ河芸郡神戸城下に傳左衛門という侠客がいた。
安政二年(1855)ごろから荒神山観音寺の会式に際し、寺の近くで開帳する賭場の主催となっていたが、彼が死んだのちその子の長吉がこの跡目を相続した。
 子分は五十余人だったが腕力の争いで安濃徳にはおよばないが、賭場の収入は圧倒的に多かった。毎年四月八日には御賽銭勘座所という看板を掲げ、大々的に賭博を開帳し、盆割絣銭(手数料)が多いときは
金千五百両を越え、少ないときでも数百両にもなった。
 この当時、農民町人の財力ある者たちがこぞってこの賭博に加わった。俗歌に里遠きこうじが山のもみじ葉も観世大悲の光とぞ見る
 そのため財力では安濃徳を凌いで諸国の侠客と対等に交際し、博徒社会で名前も売れて羨望されていた。

   昔は近くの石薬師如来の縁日に人々が参詣し、ついでに加佐登神社、そして荒神山観音寺、野登寺に廻るのが常とされていたのだが、荒神山の賭場が盛大になってきたため、石薬師に参詣する者がしだいに
減少していたのである。
 安濃徳はなんとか機会をみて長吉を排斥し、この権益地盤を物にしたいと狙っていたが、なかなかその機会がつかめない。
 慶応二年二月(1866)のある日、
 安濃徳の子分、熊五郎は朝明郡東富田村の料理屋、三筋屋の「お琴」という娘に一目惚れとなった。
  『なんとかして女房にしたい』
けれども彼女はすでに神戸長吉の子分、加納屋利三郎と婚約していた。
 熊五郎はこの婚約を最初は知らなかったらしいが、二月廿日になってこの事実を知って大に失望し嫉妬に狂った。

 翌日の二月廿一日、
 偶然に桑名近郊の賭場で利三郎と熊五郎は顔を合わせた。
腹に嫉妬の怨念があるので些細なことが喧嘩になる。
双方が刀を振り回す争いをおこしてしまった。そのときは仲裁者があって収まったが、この喧嘩は熊五郎が挑んだのは歴然としている。ところが安濃徳は
  『これは絶好の機会がやってきた』
と子分の角井門之助と相談し、三十三人の子分を引き連れ、加納屋利三郎の宿を襲撃した。そして止宿していた信州常と下総熊を傷つけ、ほかの連中を追い払った。
 安濃徳の一行は余力を駆使して神戸城下に進み、夜になってから長吉の住宅を破壊しようと進入をはかった。
しかし長吉と利三郎は不在であり、そこにいた長吉の母シゲにこっぴどく
  『女だけの家に押し込んで、馬鹿野郎!出直してこい!』
と罵倒された。彼ら三十余人はそのまま高宮村の近くの椎茸山に退去し、「おみね茶屋」を根城に長吉の来襲を待つことにした。

 そこで安濃徳はじっくりと長吉の人物像を観察分析してみた。
  「長吉は父の傳左衛門のような大胆な男ではない、
   父母の余勢とその財力のために大勢を統率している
   だけだ。こちらから積極的に攻めれば勝てるぞ。」
彼はそう分析すると
  『このつぎは臆病風は禁物だ。徹底的に攻めまくるぞ!』
と子分たちを鼓舞したのである。この分析は当たっていた。
あとで判明したところによれば、あの大喧嘩の最中に彼はどこかに隠れていたらしい。
 
 神戸長吉と利三郎たちが家に帰り、母から安濃徳たちの暴行を聞くと、翌日、子分三十余人を集めて「おみね茶屋」に向かった。
 その途中で敵と遭遇しすぐ争闘になってしまった。
そのときかって加納屋利三郎に雇われていた一人の青年、突然竹林の中から飛び出し
『エイッ!』
といきなり竹槍で熊五郎を刺した。この助力で利三郎は止めを刺した。

 加納屋利三郎は元は質屋の生まれだが、素行不良のため博徒と交際したため父から勘当されていた。しかし利三郎はこの青年の父母を救済し、ときどき金銭の援助をしていた。
そのため青年は報恩のために力を貸したらしい。

 しかし双方が乱闘をしている間に、利三郎は角井門之助に討たれてしまった。門之助は剣と槍に優れ信濃千曲川で父の仇討をしたことがある。けれど素行不良のため追放されていた。
だが剣をとれば利三郎の及ぶところではない。あっけなく殺害されてしまった。
 やがてこの騒擾が伝わり、亀山藩、神戸藩、代官屋敷などから続々と取り締まり鎮撫の勢力が派遣されてきた。それを知ると博徒たちはちりじりに四散していったのである。
 このとき徹底的に博徒を追求し捕縛しておけば、あとの大争闘は起こらなかったのだが、当時の幕府および諸藩の警察力では止むを得なかったのかも知れない。

 それから安濃徳は尾張、三河、遠州、甲州、信濃、駿河、伊豆など、諸国の義兄弟や博徒仲間に応援を頼んだ。また伊勢一円の博徒社会に子分を派遣し、
  『来月の四月八日に荒神山観音寺境内の賭場を
   自分の主催で開帳するので出席されたい。』
と通知し、すでにこの賭場を占有したように吹聴したのである。

 このとき安濃徳の賭場に出席を拒絶した親分は、度会郡小俣の武蔵屋周太郎、そして塩浜吉五郎をはじめ松阪の米太郎、稲木の文蔵、新茶屋の桝吉など五人に過ぎなかった。周太郎は安濃徳の兄弟分だが、
  『安濃徳の方が理にかなってない』
と局外中立を宣言した。神戸の長吉は
  『どうも我々に加担する親分衆が少ないでは…』
と心配になり、南伊勢地方を巡歴して説得したが同情者は増えてこない。

   そこで四月朔日、
 度会郡神社港から船に乗って三河の吉良の横須賀港に入った。
三河には長吉の兄弟分にあたる御油の玉吉、吉良の仁吉たちがいる。また寺津の間之助も仁吉の親分にあたるし、仁吉はまた駿河清水港の次郎長の客分でもある。当時の博徒はいつもお互いに連絡をとり合っていた。
彼らは各地で盛んに活動しているのだが、天下は所難多事であり、幕府や藩はもはや彼らを拘束する力もなかったようである。
 大名武家社会政治はすでに末路の有様であった。

 吉良の仁吉は長吉の兄弟分であるが、同時に桑名安濃徳の妹を妻にしていた立場だったので、長吉は訪問したとき多くを望まず
  『仁吉兄い、せめて局外中立を守ってください。』
と頼んだ。しかし仁吉は
  『妻を離縁し、その方の助っ人にいく』
と宣言、子分に命じて筆と硯箱を持ってこさせた。そして硯に茶を煮て墨を溶いた。子分たちはそこではじめて離縁状を見て愕然とした。
 そして仁吉は妻に離縁状を持たせて海路桑名に送り返し、自ず

から退路を断って決断をしたのであった。
 神戸の長吉が三河へやってきたとき、ちょうど清水の次郎長の子分十七名が何か不始末をしでかし、次郎長親分の怒りに触れて三河まで逃げてきていたが、次郎長自身も十名の子分を同行して十七名を追跡し、
仁吉方の近く西尾まで来ていたところだった。この詳細はあとでふれることにする。
 彼は長吉から事情を聞くと大いに同情し、長吉を援助することにした。そして十七名を許して自身引率の十名、他に大政、滑栗の初五郎、大瀬半五郎、桝川の宮下仙右衛門、小松の七五郎など五名を仁吉の後見
にした。そして次郎長は
  『このたびの出入りでは仁吉の命令には絶対服従とし、
   もしこれにそむく者があれば打ち首に処す。』
と一同に宣告した。次郎長自身は清水に戻るため参加できないのである。

 慶応二年(1866)四月三日、 三十余名の清水の一隊は、三河から船で桑名に上陸し、旅宿を角屋に宿泊した。翌日の朝早く安濃徳宅を訪ねたところ、彼ら一家はすでに賭場の盆割準備のため、荒神山に出かけたあとで不在だった。
清水一家はすぐに跡を追おうとすると、安濃徳の妻「お浪」が仁吉に『このクソ馬鹿者、お前なんか死んじゃえ!』
と罵ったが、彼らはあえて反発しなかった。そして河芸郡神戸におもむいてそこで宿泊した。
 翌日、稲木の文蔵が病気なのに南勢からやってきた。そして仁吉一行と安濃徳との間の仲裁を試みた。
  『なんとか出入りを避けて手打ちをしてほしい』
と双方が受け入れる条件を示したのだが、安濃徳が真っ向から
  『絶対に承知できない』
と一貫してこれを拒否して失敗に終った。

 また信濃から時次郎という親分が安濃徳を応援するため、十数名を引率してやってきてこの談判を聞いていたが、あまりの安濃徳の態度にあきれてしまい、子分を引き連れて
 『わしは中立を守るわい』
と言い残して荒神山から立ち去り、近くの庄野宿で滞在しながら様子を見ていた。間接的に長吉を応援する気配でもあった。
しかし安濃徳の激に応じて荒神山に集合した博徒たちは八ケ国におよんだ。
 なかでも甲斐の黒駒の勝蔵の子分で、ドモリの安、大八、長次、伝之助、源弥など、名の知れた連中がやってきた。
また伊豆からは韮山金太などの一家。信濃からも浮浪人たちが続々とやってきた。数の上で長吉と清水一家を圧倒していたが、彼らは八ケ国から来た集団なので、どうみても統一に欠けているのが弱点であった。

 四月六日、
こんどは寿屋琴治という侠客が和解仲裁を買ってでた。
 彼は妻が重病なのにそれを置いて両者の説得をおこなった。
しかし安濃徳ははじめから話を聞こうともせず、そうこうするうちに琴治の妻の訃報に接し、彼はこの地を後にしたので、またしても仲裁は失敗に終った。
   四月七日、
 神戸の長吉を中心に清水からきた一行は、河芸郡神戸を出発して荒神山にむかった。安濃徳は猟師を雇い入れ、樹木の上から一行を狙撃させようとしたが、はたしてこの作戦が成功したか疑わしい。
   また甲州信濃からきた黒駒の勝蔵の子分たちは、少し前に清水一家と衝突して争闘に破れていたので、この機会に乗じて仕返しを考えている者もいた。この黒駒の勝蔵は甲斐国八代郡黒駒村の親分、
つねに東海道を横行して清水次郎長と喧嘩の末、信濃伊那郡飯田へと逃亡していた。

 このとき次郎長の子分で滑栗村の初五郎という者が、三河の吉良の仁吉方に赴いた隙に乗じて、飯田市内の博徒、畑中の鉄五郎、鯛屋鶴五郎などを煽動し、初五郎の家族と同人宅に寄寓していた他国者の
博徒を殺害し、そのうえ家屋を焼いたのである。
 初五郎は怒りに燃え、清水におもむきいて次郎長に告げた。

次郎長は
  『ただちに子分十七名を派遣し、事の経過を調べ
   させるが、返事があり次第、自分もすぐ後を追う』
という。そこで十七名は信濃に至り、有無を言わせずただちに鉄五郎と鶴五郎など一家を殺害し、家を焼いてしまったのだった。これを聞いた次郎長は
  『なんとおろかな!早まったことをした!』
と怒り、近所の住民にも不安を与えた罪を謝罪し、放火は自分の意思ではなかったと世間に言い、十七名を斬に処すため後を追ったのだが、あにはからんや仁吉宅でこの騒ぎに巻き込まれてしまったのである。

 吉良の仁吉の後見五人のうち、滑栗の初五郎はその行動はきわめて敏速で知られ、黒駒の勝蔵には家族を殺されただけでなく、自分の親分である次郎長の妻もまた勝蔵の子分に殺されている。その怨恨からも
勝蔵の子分を殲滅しようと意気に燃えていた。
 神戸を出発した一行三十余人は荒神山観世寺を目標にして進んだ。
 
 この事態になってようやく幕府領内の御用聞(準警察官) 福田屋勘之助、梅屋栄蔵たち四十余人が手下を引き連れ、博徒たちを解散させようと出張してした。神戸からの長吉、清水の一行はこれを聞いて
  『安濃徳の方で解散するなら、我らも命令に従う』
という。そこで彼らを途中で留め置き、手下の留吉と春太郎ほか廿人余に監視を命じた。そして御用聞の残り廿人を引率して荒神山に到着し、 安濃徳に対し
  『直ちに解散せよ。この紛糾はこの郡一帯に留まらず、
   八ケ国にまたがって波瀾を起すことになり、これは
   絶対に許せない』
と通告した。そして庄野宿までいったん戻り安濃徳からの返事を待った。

慶応二年四月八日(1866)
 午前十時ごろ福田屋、梅屋の両人に安濃徳からの返事は
  『解散の命令には従わない』
と言うものだった。それを聞いた公儀の御用聞たちは頭にきてしまう。
  『そんな了見なら仕方がない』
神戸の長吉と清水一家が荒神山に進撃するのを黙認し、場合によっては間接的に援助を与えると暗示までしたのである。
このとき福田屋、梅屋の召集に呼応して庄野宿に集合した公儀の手下は、すでに百余人にもおよんでいる。

 神戸長吉と清水一家は三十数名、これで四百余名の安濃徳と戦うのは、とうてい勝ち目がないと思えるのだが、一行の中には吉良の仁吉をはじめ、大瀬の半五郎、小松の七五郎、滑栗の初五郎、桝川の宮下仙右衛門、
鳥羽熊、下矢部の平吉、半済村の庄太郎兄弟、三保の松五郎、奇妙院の常五郎、遠州生まれの小政、尾張桶屋の鬼吉、大野の鶴吉、大政など。
 いずれも剽悍決死の猛者たちが揃っており、その意気はさっそうとして何者にも勝る勢いであった。

 やがて彼らは荒神山に到着した。そして待ち構える安濃徳の前に進み出て
  『この賭場を当方に返還せよ』
と申し入れた。安濃徳は
  『何を寝言いっとるか!』
と応じない。それを聞いた小政は安濃徳の傍に進み、そこにいた手下数名をいきなり斬り捨てた。彼は居合い斬りの達人であった。
 こうして争闘がはじまったのである。

 双方が一斉にそこかしこで乱闘になっていった。あっという間に安濃徳の側の大田佐平治、福山喜内、角井門之助などの三人の浪士が、大瀬の半五郎、大政、小政らに殺された。
 また山辺の三蔵、島山の七五郎らは法院大五郎、こ組の栄太、大野の鶴吉、半済村の庄太郎、安太郎たちに倒されてしまった。
これで安濃徳は主要な五名を失ない、数十名の負傷者を出してしまう。もう安濃徳の敗北は歴然としてきた。

 しかしこのとき
  『ダーン!』
一発の弾丸が吉良の仁吉の左の太股に当たり、また頚部に刀傷を受けたのである。それを見て清水方は追撃を中止し
  『我らが勝った!勝った!』
と連呼して現場を離れようとした。安濃徳はこの仁吉の様子をみて、まだ勝ち目があると思ったらしいが、公儀の御用聞、福田屋勘之助、梅屋栄蔵たちが百余名を率いてこれを妨害し、十手を振るって逮捕
しようとした。また信州からきた時次郎の一家も子分を率いて清水一家を援助しようとの気配を現した。
これを知ると安濃徳方はことごとく逃走してしまった。

 吉良の仁吉は出血がひどく瀕死の重態である。
 このとき広吉という男が戸板一枚と畳一枚を都合してきた。
それを地上に置いて仁吉を乗せようとした。この当時は世間一般では
  「ならず者は畳の上で死ぬことが出来ない」
とされてきた故であった。こうして吉良の仁吉は息を引き取ったのである。
 清水一家の中の大瀬の半五郎、尾張大野の鶴吉、広吉、鳥羽熊たちは安濃徳方に所属していた浪士、福山喜内に槍で刺されたが皆軽傷で済んだ。安濃徳側は死者五名、負傷者数十名に達しており、その損害は
清水一家にくらべても大きく、これは衆心一致せずして統一を欠いたせいでもあった。

 吉良仁吉は闘争のときアメリカ製の拳銃を携帯していたが、桑名に上陸したとき誤って海中に落下させたので、肝心の個所が腐蝕してしまい、使えなくなっていたらしい。
 安濃徳方には雇いいれた猟師が猟銃を発射したのだが、彼らをうまく騙して雇い入れたので、隙を見て脱出を企てた者が多く、仁吉一人を傷つけただけに終っている。
 このほか清水方の法院大五郎は裸となり、松の丸太を振るって相手方をなぎ倒したという。また「こ組」の栄太は元江戸の火消しだが、彼も丸太を振るって相手を圧倒した。
 こうしてこの大喧嘩はようやく終息にむかった。

 公儀の御用聞である福田屋、梅屋、そして稲木の文蔵らは木綿、膏薬などと清水方に提供し負傷者に包帯などを施した。
また仁吉の遺体は白布で巻いて蔽われ、長吉が先導して伊勢湾の海岸に運ばれていった。そして海路船に乗って夜をつないて三河に去っていった。
「こ組」の栄太、半済村の安太郎、庄太郎たちは次郎長の子分ではなく、一宿一飯の仁義で応援したものである。
 仁吉の後見だった宮下仙右衛門は次郎長の甥である。

大政は元名古屋尾張藩先手槍組の小頭で本名を政五郎と言った。
小政に比べて身体が大きいので大政といわれた。尾張藩ではなにか失態があって追われた者である。だから荒神山で安濃徳方の浪士、太田佐平治を殺し、その槍を奪って敵方の角井門之助を刺し、彼を倒したのは
槍術に得意だった経歴のせいであった。
彼の槍は一人で敵方の五、六人を相手にできたとある。大政の槍と法院の松丸太は稀にみる活躍であり、これを清水港では
  『清水港でこわい者何じゃ、大政小政の声かいな』

 安濃徳方の当日の目標は神戸の長吉だったのだが、長吉は高宮村の農業、弥右衛門方に潜んで隠れていた。
争闘が終息してから、のこのこ姿を現し子分と三河までいったのだが、三河の寺津の間之助が彼の刀を調べたところ、争闘を避けた事実が判明した。
 彼は怒って長吉を斬り殺そうとしたが、御油の玉吉が宥めたのでそれ以上にならなかった。
 この噂が広まると長吉は三河に居れなくなり、長吉一家は行方をくらませてしまった。彼らは賭場の収入が多かったため、身命を賭けて最後まで戦いをする者がいなく、三月廿二日の争闘の始まりごろから、
ぼつぼつと脱走者が出る始末だった。
この一家は金のために博徒になっていただけであり、博打は富を得る手段だと割り切っていた。

 こうして次郎長は荒神山騒動の中心者、神戸の長吉と縁が切れたのだが、荒神山で倒れた吉良の仁吉の弔い合戦を計画した。
 彼は安濃徳に喧嘩状を突きつけ、五月五日に子分百三十人余を率い、二千両の軍資金を用意し千石積みの帆船三隻に分乗して桑名に向かった。
 これを知った亀山藩、神戸藩、幕府代官たちは合議し、
  『これ以上に事態を放置することはできない』
と、鎮圧抑制行動に入ることになり、各藩とも荒神山に藩士を派遣して監視させた。
 またこの騒動にはじめから介入してきた公儀の御用聞の福田屋、梅屋、武蔵屋周太郎、塩浜吉五郎、などを使い、両者の間の話合い調停はかった。
 その結果、桑名の上陸は三十余人だけとし、安濃徳に謝罪状を提出させることにした。この案を双方が合意したので南勢で和解の宴会を開き、無事に手打ちが成立したのである。
 その席上、安濃徳は剃髪し墨衣をまとって謝罪の言葉を述べた。それをみて各自はそれぞれ納得し、故郷に帰っていった。

 ここで史上名高い〔荒神山の血闘〕は完全に終息したのであった。その後、明治元年になると旧幕府直轄領を仮に亀山藩に支配させた。亀山藩の取り締まりはかってなく厳しく、盗賊や乱暴者、博徒の類を
完全に駆逐してしまった。
 荒神山近傍の博打場は消滅し、それからの四月八日は観音寺に参詣するだけの、善男善女の世界に戻ったのである。
  

P A G E - T O P