次郎長に見るリーダーシップ

次 郎 長 翁 年 譜

幕末のヒーローの生涯のエピソード

H O M E

西暦年次年齢事蹟
1820文政三年
1月1日駿河国有度郡箕輪に生まれる。生家は薪炭を商う、舟持船頭三右衛門の次男、長五郎と名付けられ、 母方の叔父、甲田屋(米穀商)次郎八の養子となる。次郎八の所へ来た長男ということで「次郎長」と呼ばれるようになった。
1826文政9年
中国の貿易船が遠州吉田港に漂着、修理のため清水港に回航される。巨大な異国船と異国人(中国人)を目撃し、世界の広いことを知る。
1827文政10年
孫四郎先生の村塾に入る。
1828文政11年
禅業寺の寺小屋で読み書きを学ぶが、いたずらが過ぎ退塾。
1829文政12年10
粗暴な性格を直すため、由比倉沢の伯父兵吉のもとに預けられる。
1834天保5年15
粗暴な挙動改まり、甲田屋に戻る。江戸に行こうとして許されないため、百両あまりを持って家出。 浜松に行き米相場で巨利を博し、清水に帰って家人を驚かす。
1835天保6年16
養父次郎八死亡、長五郎は家業の米屋に精を出す。
1837天保8年18
養母、情夫と通じ家産を湯尽して家出、長五郎は妻(きわ)をめとり、家業の回復に勤める。
1839天保10年20
旅の僧、長五郎の人相を見て、25歳までの寿命と予言。どうせ短い命なら、思い切り太く短く生きてやろうと、任侠の世界に漕ぎ出す。
1841天保12年22
>甲田屋に四人組の強盗はいる。長五郎これを追って重傷を負う。
1842天保13年23
6月、驀地のもつれから巴川湖畔で小富、佐平を斬る。甲田屋を姉夫婦に譲り、妻と離別して 無宿者となり、清水を離れる。三河の寺津(西尾市)に行き、今天狗の治助のもとに身を寄せ、さらに吉良の武一について剣術を学ぶ。任侠の道に 入って行く。
1845弘化2年26
遠州川崎で争い事から負傷、傷を直して清水へ帰る。津向の文吉と和田島の文左衛門が庵原川で 対決しているところを長五郎が仲裁。侠客として名声高まる。
津向の文吉は和田島の文左衛門との出入りでは子分10人を率いて駿河庵原川(静岡県静岡市清水区)まで出陣する。ところがこれは三馬政(さんま まさ)の計略であると言われ、まだ駆け出しであった次郎長の調停により出入りは回避された。文吉はこれを縁に次郎長との関係を深める。
1847弘化4年28
親友の江尻の大熊の妹「おちょう」をめとり、清水市仲町妙慶寺門前に所帯を持つ。 子分らは10人あまりが逗留、家計は苦しい。
1853嘉永6年34
ペリー、軍艦4隻を伴い、浦賀に来航。黒船騒動。
1858安政5年39
捕吏をのがれ、子分たちを連れ、名古屋の深見村長兵衛に逗留。12月晦日、女房のおちょう病気の ため死去。
1859安政6年49
保下田の久六の密告により深見村長兵衛が次郎長を匿った罪で捕らえられ牢死する。長五郎は逃れて 寺津間之助のところへ行く。6月、久六を斬り長兵衛の恨みを晴らす。捕吏の探索きびしく、長五郎は大政や石松を連れて甲州、越後、加賀、越前さらに四国へと 長い逃避行。この時、金毘羅宮に必ず久六を斬り、長兵衛の恨みを晴らし、斬った刀を奉納することを誓い、代参は石松に来させることを約束する。
保下田の久六、元関取八尾ケ嶽惣七は博打で借金ができて清水を立てなくなり、次郎長に泣きついて二十両をもらい清水を立つ。それからも博打を続け、大きな借金を作ってしまって青くなっているとところを 隣に座っていた次郎長に「商売にしているわっしらでも、博打で勝つというのは10日にいっぺんあるかなし、ましてやお相撲さんが博打で勝つなんてなぁ天辺からの誤り。もう博打は打ちなさんな、取られた二百両は 返してやる、別に意見料百両やるから持って帰んな」「へえ、ありがとう存じます」と言って帰ったが、相撲を辞めて博打内になって江戸屋虎五郎の弟分となり、大場の久八を後ろ盾に博徒としての頭角を表していた。 それから博徒同志の抗争を繰り返し、その度に次郎長に加勢を求めて来たり、勝手に次郎長を兄弟分呼ばわりしたりしていた。そんな彼らを次郎長がもてなしをしたことにつけ上がり、まだ金をくれと言うのを、次郎長も 堪忍袋の尾が切れ久六の頭に湯呑みをぶつけて追い出す。
1860万延1年41
石松を四国の金刀比羅神社に礼参りに行かせる。清水への帰途、石松は都田村吉兵衛三兄弟に見受け山 鎌太郎から親分の妻・おちょうの香典として預かった二五両を騙し取られた上、斬殺される。6月1日、次郎長一家、梅蔭寺住職宏田和尚のふるまったフグに当たり、 角太郎、喜三郎が死亡。
散々世話になった次郎長を逆恨みし、次郎長と女房お蝶が旅先で難儀しているのを、奉行所に密告して捉えようとしたが、次郎長は深見村長兵衛の機転で逃亡したが、代わりに長兵衛が捉えられ 牢屋で攻め殺される。その仇討ちとして保下田の久六を殺害して、斬った刀を讃岐の金毘羅宮へ奉納する。金毘羅参拝を森の石松に次郎長の代参として行かせた帰り道、方々から預かった亡き次郎長の 女房・お蝶の香典を都鳥三兄弟に騙し打ちに遭い石松が斬殺される。
1861文久1年42
次郎長一家がフグ毒で倒れていると聞き、石松斬殺の報復を恐れていた都田兄弟は逆襲を企て 清水へ向かう。都田吉兵衛らが追分宿で昼食をとっているところを、報を聞いた大政らが襲い吉兵衛ら11人を討ち取り石松の恨みを晴らす。
都鳥三兄弟は、石松斬殺の報復を恐れていたところに「清水一家がふぐにあたって多くの死人が出た」という噂を聞いて、今のうちに次郎長の寝首を取ろうと清水へ乗り込んできたところを 大政たちの活躍で打ち取り、石松の仇討ちを遂げる。 また一説によると、次郎長が石松の仇を打つ計画を知った津向の文吉親分が仲裁役を買って出て、都鳥三兄弟と清水一家とをお金で手打ちをさせて一時は落ち着いたが、やはり次郎長は腹の虫が治らず、 可愛い子分の石松の命を金に変えることはできないと、受け取ったお金をたたき返し都鳥三兄弟を殺害し、都鳥吉兵衛の両腕を切り取り石松の墓に備えたという話も残っている。
1862文政2年43
甲州黒駒の勝蔵ら一味は、興津の盛之助に乱暴を働くなど悪事をもって横行し、捕吏の追うところとなる。
遺訓
• 博徒は長脇差を差すべからず
• 賭博は金銀を得ることを目的とすべからず
• 負い目の客人には意見して一時勝負を手控えさせるべし
• 喧嘩訴訟はなるべく和解せしめ公平に扱うべし
• 凡そ何事の斡旋にも手数料を取るべからず。ヒマをいうなかれ
• 自分ばかり善い人になるな
• 飲酒して賭場に出入りすべからず
• 道を歩く時は肩で風を切るな
1866慶応2年47
笠砥神社(三重県)の祭礼の賭場に安濃徳ら黒駒勝蔵の一味が集まる。吉良の仁吉や大政ら清水の一党 二十二人が、荒神山で血闘。大政が首魁の門之助を倒したが、仁吉は重傷、法印大五郎ら討死する。次郎長手勢四百人余を引連れて船で伊勢に渡り、安濃徳らは陳謝する。 ―荒神山の血闘。
歴史上の侠客
次郎長に見るリーダーシップ

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1868明治元年49
四月 駿府町奉行廃され、伏谷如水駿府町差配役となり駿府治安に当たる。長五郎を召し出し、街道警固を命ずる。 積年の罪科を免ぜられ帯刀を許される。黒駒勝蔵、池田数馬と変名し、官軍先鋒となって駿府に来る。見抜いた長五郎、勝蔵の江尻通過を拒む。 七月 浜松藩に帰る伏谷如水を 子分らと送る。 江戸から海路清水港に上陸した旧幕臣とその家族ら難民を次郎長は炊出しなどで救護する。 九月十八日、幕府軍艦咸臨丸、 清水港内で官軍に攻撃される。港内に 浮遊する幕軍の死体を、次郎長が収容し手厚く葬る。―咸臨丸事件。 十二月、三保神社神宮太田健太郎、徳川浪士により暗殺。市中取締役の次郎長はその遺族を救護し、治安に当たる。
『江戸城無血開城』
1968年(明治元年)三月二十五日東征大総督・西郷隆盛が江戸総攻撃を目指し徳川慶喜公を処刑し、幕末動乱に終止符を打つ計画をしていた。勝海舟は西郷に手紙を書き、慶喜の恭順の意と江戸の現状を書き記した手紙を渡そうと、高橋泥州に依頼するが、江戸を離れられないとして、義弟の 山岡鉄舟を推奨する。徳川慶喜公の命を受け勝海舟の手紙を西郷の元に届けんと和平交渉に向かう途中、官軍の先遣隊に襲われた山岡鉄舟が逃げ込んだのが宿屋・望獄亭(ぼうがくてい)。そこの主人が次郎長とは実根の仲だったことから親父の機転で裏口からこっそり抜け出して案内されたのが次郎長の家。次郎長は「よくぞ鉄舟さんはわっしを頼ってくだすった」と喜び、次郎長とと子分の護衛の元、無事駿府の旅館に本陣を置く西郷隆盛に勝海舟から預かった手紙を渡し、西郷隆盛、山岡鉄舟の会談を成獣させました。そのことが「明治維新」に向けて歴史の一コマを動かしたのでした。そこに影の功労者として次郎長の活躍がありました。 一晩におよぶ西郷と鉄舟の交渉が身を結び、その後江戸にて、西郷隆盛と勝海舟の会談が行われ、江戸城無血開城が正式に実現したのです。
〜西郷隆盛が勝海舟に語った鉄舟への評価〜 「命も要らぬ、名もいらぬ、金もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない。ほんとうに無我無視なる人とは、山岡さん如き人でしょう」と。
※山岡鉄舟が逃げ込んだ宿屋、藤屋 望獄亭(ぼうがくてい)には山岡鉄舟が残していったフランス製の拳銃が残されています。
1869明治2年50
二月、二代目おちょう、次郎長の留守中徳川浪士と思われる男に白昼斬殺される。子分田中啓次郎、犯人を追いかけ妙音寺 にて討取る。 山岡鉄舟、「壮士之墓」の墓碑銘を揮亳(きもう)する。 幕臣杉方了二(後の初代統計局長官)次郎長と会い、三保の塩田、有度山の開墾など移住土族投庫の道を探る。 十二月、廻船問屋松本屋の奥座敷で、新門辰五郎、次郎長と会い、辰五郎より徳川慶喜護衛役を依頼される。
江戸の火消しの親方でもあり侠客としても名のある新門辰五郎が駿府まで慶喜を護衛してきた時、次郎長に遭い慶喜の護衛を引き受けてくれるように頼みに来る。新門辰五郎の娘が慶喜の妾だったことから、慶喜とは深い付き合いがあった。それを引き受けた次郎長は、慶喜を連れて清水港を案内して回った。その後も慶喜は度々清水湊に遊びにきていた。 湊で漁師が投網をしているのに興味を持ち、投網の練習に余念がなかった。この元将軍慶喜という人物、かなりな多趣味で有名。
1874明治7年55
向島の囚徒を使役し、富士裾野(大渕)の開墾をはじめる。県令大迫貞清は激励の歌を贈る。 半田港から清水港に 進出した中埜・盛田合弁による酒の量販店「中泉現金店」開業に力を貸す。
明治七年、次郎長が向島の囚人を使って開墾した24万平方メートル76町3反歩は現在「次郎長町」として発展しました。その他、富士山麓バスの路線には「次郎長作業所前」などと停留所も残されている。
1875明治8年56
向島に波止場の建設はじまる。清水港は巴川の河口港から外海港に変身。次郎長は廻船問屋経営者たちに、 蒸汽船による横浜港との定期航路開設を説く。
1876明治9年57
蒸汽船靜岡丸、清水港と横浜港に就航。靜岡茶を横浜に運ぶ。次郎長は頻繁に横浜に行き、神風樓に宿泊 、横浜商人と清水港廻船問屋経営者を結びつける。 この頃「これからの若い者は英語を知らなきゃだめだ」と、幕臣新井幹の開いた私塾「明徳館」の一室を使い、近隣の 青年を集め英語塾を開設。
1878明治11年59
波止場の建造、港橋の完成。アメリカ前大統領グラント将軍来港、次郎長は漁師達を集め投網を披露。 11月、山岡鉄舟が、戊辰戦争で不明となった父母妹の行方を尋ね遍歴する天田五郎を次郎長に引き合わせる。天田五郎は次郎長の家に逗留し、次郎長一代記『東海遊侠伝』 を執筆。次郎長は全国の親分らに手紙を出し、五郎の父母妹の探索を支援する。
次郎長は、外洋航路船が接岸できる港を作らなければ清水港の発展はないと説き、海鮮問屋などに協力を求め建設した「次郎長堤」、今は駐車場の一角に石垣だけが残っている。
1880明治13年61
横浜の輸出商、静岡の茶商、清水港の廻船問屋の三者の共同出資により静隆社設立。静岡丸、三保丸が帆航。 次郎長は会社設立に尽力。茶の港清水の基礎を築く。
1881明治14年62
大政こと山本蟆政五郎死去。天田五郎再び清水港にきて、次郎長の養子となる。富士の裾野の開墾続く。
次郎長の後継として養子縁組し、富士裾野開墾の指揮をしていた大政が50歳で亡くなる。知らせを聞いて東京で写真家の弟子入りをしていた天田五郎が帰って来て、次郎長の養子となり、 大政に変わり富士裾野の開墾の指揮を取る。次郎長たちが開墾した24万平方m78町3反歩という面積に及び、この土地を次郎長の志を尊び「次郎長町」と名付けた。
次郎長開墾の記念碑(次郎長町)
1884明治17年65
二月、博徒のいっせい刈込みにより、靜岡井之宮監獄に収監される。懲役七年、罰金四百円の刑。 天田五郎著による「東海遊侠伝・一名次郎長物語」が東京神田の与論社から出版。次郎長伝記の元祖となる。
この時出版された「東海遊侠伝・一名次郎長物語」が元になり、講談、芝居、浪曲などの出し物が「清水次郎長」一色となる。中でも、神田白山の講談が一番に行きで「次郎長白山」の異名を取る。 この東海遊侠伝が次郎長の人柄を全国に知れ渡る元となり、玉川勝太郎の浪曲に引き継がれ、やがて広沢虎造の浪曲へと引き継がれた。
1885明治18年66
十一月、次郎長こと山本長五郎、特赦放免となる。
このとき釈放された次郎長を一眼見ようと、集まった人の波が静岡井之宮監獄から清水まで沿道に集まった。
1886明治19年67
次郎長、向島波止場の白井音次郎(徳川慶喜家臣)の所有地に、船宿『末廣』を開業。開業披露のため 山岡鉄舟は1008本の扇子に揮亳。
1887明治20年68
4月17日、興津清見寺において咸臨丸殉難者記念碑の除幕式が行われる。碑文は榎本武揚 書。 夜『末廣』にて関係者の慰労会がおこなわれる。
1888明治21年69
山岡鉄舟死去。次郎長は旅姿にて東京谷中の全生庵の葬儀に参列。
1889明治22年70
岡中学生 新村出、相原安次郎とともに次郎長を訪ねる。
1890明治23年71
海軍少佐小笠原長生、軍艦天城に乗り組み来港、『末廣』を訪ねる。
この頃、若い海軍将校たちは次郎長の博徒時代の武勇伝を聞くのが楽しみで船宿「末廣」をたびたび訪れていた。次郎長は若い時の苦い経験からお酒は一切絶っている、若い将校たちは お酒が入り盛り上がったところで、次郎長の武勇談がはじまる、次郎長が割り箸を刀の様に腰に構え抜く素振りを見せた時の緊張感は、作り事でなく本物の多くの博徒と命を張り合った時の様な 殺気には皆息を飲む瞬間だった。
1892明治25年73
山田長政顕彰碑建立のため、駿府城内に大相撲興行を催す。
1893明治26年74
幕末に生き、博徒として東海道で街道一の親分として現代にも名を残し、「やくざに強いが、堅気に弱い、真の侠客」としていまだに人気のある次郎長は、 江戸時代には義侠の世界に生き、明治になってからは政府の役人としても活躍しました。 しかし、明治17年に博徒一斉取り締まりにより収監され7年の刑を言い渡されますが、次郎長の養子となっていた天田愚庵著の「東海遊侠伝」が発行され るや全国的に次郎長の名が知れ渡り、講談、浪曲、芝居などが人気となり次郎長の明治以降の社会貢献が認められ一年後釈放されます。 実に、波乱万丈の人生を歩んだ山本長五郎の生涯は多くの人々に共感を与えました。
明治26年6月12日、次郎長、風邪がもとで死去。梅陰寺にて葬儀。参列者は3000人を超えた。 法名は碩量軒雄山義海居士。
辞世の歌『六でなき 四五とも 今はあきはてて さきだつさいに あうぞうれしき』