侠客・次郎長、地元著名人との繋がり、人柄

次郎長親分ってどんな人?

加藤末吉という人物がいた。彼は明治、大正期の小学校の模範的教師かつ校長であり、また 末吉が師範学校を卒業し、清水高等小学校へ赴任した際次郎長の家に挨拶に
行ったときの様子が記録として残っている、これは明治24年(1891)の春のこと。
68歳のときの出版「教壇40年の骸験」に次郎長との面会文章を見つけたので一部抜粋。(次郎長翁を知る会副会長・山本量正氏)

次郎長の家に行くとは、大きなあぐらのたたずまいを座り直し。
「じゃあ、なんですね。蜂屋定憲先生のお弟子さんかね。それは不思議なご縁だ。どこにおいでかね、あの家は賢いえい内(いい家)だ。
ご都合でもおらんち(俺の家)へおいでなさってもいい。兎に角お一人じゃ洗濯物が困るかも知れネイ。

な〜お蝶(細君の名前)時々洗濯物の面倒みておあげ。」「先生、ふんどしでもなんでも構わねい、お出しなさい」
それから上に上がれ上がれというから、炉の正面に直座して、お菓子の接待に預かりつつ、種々の談話を聞かされた。
今記憶に残っていることを書いてみると、「ヤクザのわっし、今となると教育とか軍人さんが大好きだ。眼のみえない
(教育のない)わっしの考えでは、わけて学校が大事だと思う。

先生、おめいさん。しっかりやっておくんな。わっしゃこの間女衆の学校を建てよって演説したもんだ」と言ってると、
4,5人の子どもたちが大声を上げて「親分さん、お湯へいかないの」と誘いに来た。「うん、今行くから一足先におめいっちゃ行きな」
と言って袖から小銭5〜6銭を出して与えた。これはもちろん銭湯代をあたえるのであろうが、それと同時に、炒り豆だの菓子の若干も出た。
今日は菓子がねいから後でやるぞ」と言われ、あるだけ全部を分けてやった。

その時私は想像した、なるほど次郎長さんは教育が好きだ。子供をかわいがるというが、実に事実である。
無心な子どもたちが入湯を誘ってくるのは、その賃銭や菓子がほしいというばかりではあるまい。その打ち解けて入湯するのが何よりも楽しみであろう。

おそらくはこれでは親分の背中まで流すであろう。

これは次郎長親分も立派な教師だと考えさせられた。子どもたちのために話は途切れたが、私は壁間に山岡鉄舟翁の額「精神満腹」のかけられてあることから 思い出し、私の兄が鉄舟先生の門人であることを述べると、次郎長親分は膝を進め「名は何と言わるるか、今どこに居られるか。あるいはお眼にかかった事がるかも知れない。 兎に角不思議なご縁だ。どうか清水で長く先生をなすってくだせい。」と言ううちに、子供たちの再度迎えで「では夜分にでもお遊びに、御用の節はご遠慮なく、よう 訪ねて下さった。蜂屋大先生によろしく」ということで、その日は辞退してしまった。
山岡鉄舟より贈られた「精神満腹」額

実相寺での演説のエピソード

加藤末吉は、「教壇40年の骸験」の中でこんなことも書いている。次郎長が実相寺で「女学校」建立のため演説会をしたとの話が載っている。
末吉が当時の郵便局長から聞いた話として、
会場は実相寺という相当大きな寺の本堂であった。なにしろ一世一代の演説をするという触れ込みであった。殊に次郎長さんがやるというから、
ほかも他も不思議がった。

「喧嘩は上手でも演説はまずかろう」「何、できなかろう」というわけで、珍しいものは誰も見たさにずいぶん集まったものだ。
かなり広い本堂にほとんどいっぱいと言ってもよいほどであった。

私も家が近いので、冷やかし気分で行ってみたのです。
親分は早くからきていて「やるぞ、やるぞ・・俺がやるぞ」という勢いで皆に「よく来て下さった」と挨拶していた。

それがいつ頃であったかしかと覚えてもしないが、仏壇の正面に立ってやり始めた。聴衆は大騒ぎ、親分は大喜びで開口した。

「おめいっちゃよく来て下さった。お礼を申します。これから俺の話を聞いてくんな。
それは向こう横丁に三毛猫がおった。こっちの横丁には黒猫がいた。

三毛猫の飼い主は一生懸命に育ててネズミの捕りようを仕込んだから近所から貰い手が沢山あった。けんど、一方の黒猫のやつは何もかまわんものだから
ネズミを捕るよりももっと手軽な魚を盗みおって、皆さんから泥棒猫だと嫌われ、誰も相手にしねえだ。みんなどう思う。人間だってそうだ。

学問させなきゃだめだ。このしみずの町にゃ、えい(良い)小学校は出来たが、まだ女学校がネイ。欲しいほしいと言ったって建てなきゃ出来ねえだ。
嫁の貰い手もなくっちゃしょうがねい。これからの女にゃ英語でも何でも教えるがえい(良い)。おめいっちゃどう思う。

俺の演説はこれだけだ。どなたさんも賛成でごあんしょう。ご苦労さんでごあんした」
という調子。

博徒の親分であったが、なかなか人徳のあった人だから、誰も親しみを持っている。そしてこの人が一肌脱げばどんなことでもやってしまう。

それかと言って女子供に対しては滅法優しいのです。

「やあ、おもしろい演説だ」といって拍手喝采、大評判であったのです。
以上が郵便局長から聞いた話で、それに続けて

・・なお、聞くところによれば、これにより以前から東京から英語の先生を雇ってきて、青年たちに語学を学ばせたりまた清水小学校へ早速オルガンを
備えることにしたということである。
「※上記記事の出どころ」

「次郎長翁を知る会」の副会長、山本量正氏が我が家の歴史を子供達に伝え遺すため、先祖である江戸時代の「廻船問屋:山本屋清右衛門」の
歴史とともにもっと身近な祖父母や 父母の履歴書を作ろうとしている。

その中でまず祖父「山本量平」に注力した。明治維新後の廻船問屋から酒類商を営みながら戦前の清水市会議員、静岡県会議員、、
在郷軍人会清水分会長(在任中の昭和3年梅蔭寺の初代次郎長銅像建設に尽力)商工会議所員など歴任したが、一方ではその妹(つね)が三代目お蝶の連れ子の、
「清太郎」の子供「入谷鱗助」(いわば次郎長とお蝶の孫)に嫁いだことから次郎長との関係も産まれ、これまで私は会報「次郎長」や戸田書店の「季刊清水」の記事を書いてきた。
そんな祖父「量平」の歴史が思わぬところで次郎長との縁があったことを知りました。
以上、「次郎長翁を知る会」の副会長を務める山本量正氏の〜次郎長没後130年、新資料の発見・実録 蘇る次郎長像〜「次郎長翁を知る会」会報42号より抜粋。

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