遠州森の石松、終焉の地「閻魔堂」

閻魔堂 かつて次郎長が、その当時関取だった八尾ヶ獄惣七が博打に手を出し、有り金全部巻き上げられて困っているのを見かね, 隣に座っていた次郎長が「関取待ちねえ、お相撲さんが博打を打つなんててっぺんからの間違い、 これからは博打なんぞしなさんな、取られたお金は返してやる」と言って取られたお金を次郎長に立て替えてもらったときは、流石に「へい、ありがとう存じます」と言いながら、

その後身を持ち崩し博打打ちになり保下田の久六と名乗り一家を構えた。その後も散々助けられたことを逆恨みし、秋葉山の火まつりで親の仇を討った益川仙右衛門の助たちをしたことから捕吏を逃れる身となった次郎長が尾張に来ていることを知り、 義理の兄である代官に密告し、次郎長を匿った罪で深見村長兵衛を捉え、牢死させた。
その事を聞いた次郎長が「なんと俺は罪作り、俺さえ尾張に来なければ長兵衛さんを死なせずに済んだ」と嘆き、保下田の久六と悪代官を長兵衛さんの仇として討って、
斬った刀を次郎長の代参として石松を讃岐の金毘羅宮に奉納しに行かせました。ところがその帰り道に、石松は今評判の伏見の身受山鎌太郎の家に逗留し、
そこで身受山から昨年亡くなった次郎長の妻の「おちょう」の香典として百両、別に石松の道中の小遣いとして三十両を預かって、 清水への帰り道、遠州都田村の都鳥吉兵衛とばったり出会ったのが石松の運命を決めました。都鳥三兄弟から借財を頼まれ、貸した百両が返せないからと元久六の子分に親分保下田の久六の敵討ちの助っ人をすると言い、 石松には借りたお金が出来たと嘘を言って閻魔堂の前まで連れ出しました。

閻魔堂の前まで来ると突然閻魔堂の扉が開き、中から飛び出して来たのが元久六の子分3人、「親分の敵」と斬って来た。 「保下田の久六は、悪いやつでもてめぇっちの親分だ、子分が親分の仇を打つのは当たり前。俺が弱けりゃ打たれてやるが、俺が強けりゃ返り打ちだ、さあこい!」と切り合っているところを 都鳥一家七人が「石さん、助太刀をするぞ!」と言って油断をさせて、後ろから切りつけられたが、その場を逃れ、兄弟分の小松村の七五郎に家で匿われるが、 どうしても貸した百両取ってやると酔った勢いで七五郎夫婦が止めるのを聞かずに出て行って斬殺されたのが、このいまだに残る「閻魔堂」。
森の石松の祠 淋しくひっそりと佇む、今にも壊れそうなほこら「石松の祠」。この祠は秋葉路にそって常夜灯と共に1815年文化12年に大石善左衛門により建てられた。 石松の首無し地蔵は、ここより300m前方にあったものを、この地にうつされた。石松は三河の半原村の庄屋の家柄に生まれ、少年時代を森で過ごしたが 都田村の吉兵衛三兄弟と元保下田の久六の子分によってに騙し討ち似合い斬殺された。里人と四人組の手により地蔵堂が建てられたが、この地蔵は家内安全、商売繁盛、目、耳の病にご利益があると地蔵が 欠き取られ首無しとなった。
森の石松の墓 遠州森の石松、ここに眠る。墓石の名前の部分が削り取られているのは、全国の博徒が「お守り」とするため、墓石を削り取ったものだそうです。 静岡遠州森町「大洞院」