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清水港船宿記念館「末廣」船宿「末廣」では、清水次郎長が清水港振興に尽力した晩年の姿を知ることができます。幕末から明治を駆けぬけた次郎長と清水港の様子を、今に伝える貴重な建築物です。 【明治からの次郎長と末廣】 明治維新前の次郎長は「弱きを助け、強きをくじく」任侠の親分として活躍し、講談、浪花節、小説、映画などで語りつがれ民衆文化のヒーローとして有名でした。 明治維新を契機に次郎長の人生は社会事業家として180度の転身を果たしました。明治元年の旧幕府の軍艦「咸臨丸」 の犠牲者を手厚く葬ったことにより、山岡鉄舟と出会い、影響を受けました。富士裾野の開墾やお茶輸出による清水港の発展に尽力しました。 晩年は船宿末廣を経営し、日露戦争で活躍した広瀬武夫や小笠原長生、画家の富岡鉄斎などが訪れ、交流を深めました。 また、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜公も次郎長を訪ねて度々訪れています。 次郎長は「波止場のおじいさん」と子供に慕われ、74歳でその激動の生涯を閉じました。 〒424-0943 静岡市清水区港町1−2−14 |
清水の次郎長さん![]() ![]() |
[次郎長生家・次郎長資料館]
次郎長生家も船宿割烹旅館「末廣」同様、次郎長ゆかりのものが展示されています。 この家は実父高木三右衛門が炭を商いとしていた家で、高木長五郎としてこの家の次男として生まれました。 |
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当時の英語塾の様子次郎長は、清水港開港に尽力したほか、三保・日本平・富士裾野開墾、山岡鉄舟をはじめとする大臣たちとの交流など幾多の社会貢献 を行った。 教育に関しても著名な活動がある。明治9年(57歳)には「これからの若いものは英語を知らなきゃだめだ」ということで、幕臣の私塾の 一室を使い、近所の若者を集め、静岡学問所の若手英語教師を招いて英語塾を開校した。 塾生の中には、ハワイへ密航し、現地で成功を収めたものもいたそうです。 次郎長自身は、英語はできなかったが、時代を読むことができたようです。 |
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新政府軍に殺された咸臨丸の乗組員の墓(壮士の墓)1868年、戊辰戦争のさなか、江戸から奥羽越列藩同盟の支援に向かった咸臨丸でしたが、途中暴風雨に逢い艦隊から離脱。下田港に漂着します。 その後助けに来た船と共に清水港へ入港しますが、修理に手間取っている間に新政府軍に囲まれ、白旗を上げ降伏しますが船に乗り込まれ斬り合い に。乗組員のほとんどは斬り殺され、海に投げ落とされたのです。 新政府軍は、賊軍を弔うものは賊軍であると埋葬どころか遺体の回収さえ認めず、清水港は死臭が漂っていたそうです。 新政府軍を恐れて誰も遺体に手を出せず困り果てていました。 そこで清水次郎長は、深夜のうちに遺体を回収、無縁墓地に埋葬し「死ねば皆仏、仏に官軍も賊軍もない」罪を恐れぬ人情を見せました。 これに感銘したのが幕末の偉人で江戸城無血開城の立役者「山岡鉄舟」だったのです。整備した墓地に「壮士の墓」の名を揮毫。 |
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