侠客・次郎長と対立した悪玉博徒

次郎長を匿った深見村長兵衛を牢死させた保下田の久六

清水次郎長の活躍は天田吾郎の「東海道遊侠伝」が有名である。なかでも久六殺害事件は講談でも人気
のある場面だ。しかし、久六の生まれなどよく分かっていない。
「八尾ケ嶽惣七」のシコ名の相撲取りであったことは判っている。久六は現役の相撲取り時代から
博徒仲間との付き合いがあった。最後は相撲取りをやめ、二足草鞋の博徒となった。
次郎長との出会いは弘化3年(1846年)知多半島常滑・大野湊である。当時、相撲興行で来ていた
久六こと八尾ケ嶽惣七は、常滑一家・大野差源次の賭場で大負け,化粧回しまで質に入れて、明日の土俵
に上がれないと困っているところ、同じ賭場に来ていた次郎長が勝負で勝った30両を久六に貸し与え、
窮地を救ったのがきっかけである。
その後、久六は博徒の看板を挙げ「保下田の久六」と名乗る。
久六は、駆け出しの頃から再三、正式な兄弟分でもないのに次郎長に喧嘩の加勢を頼んだり、金を
もらったり、数々の世話になっている。嘉永3年(1850年)には一ノ宮の久右衛門
との喧嘩に負け、次郎長のところに相撲仲間とともに逃げ込んでいる。次郎長は、そんな彼らをもてなし、
さらに上州大前田英五郎の子分で舘林の江戸屋虎五郎のところに添え状をもたせ送り出している。この頃
から久六は江戸屋虎五郎の弟分となり、名古屋を拠点に伊豆の大場久八を後ろ盾に、赤鬼の金平、常滑の
中野兵太郎、大阪も忠吉、焼津・甲州屋の長吉と兄弟分となり博徒として頭角を表していく。
安政5年(1858年)次郎長の兄弟分・江尻の大熊の子分が甲州の祐天一家と諍いを起こした。これがもとで
甲州三井・祐天・国分の博徒連合と甲斐・駿河博徒連合の抗争となる。
甲州の三井卯吉(別名・猿屋勘助)が甲斐市川大門の博徒・小天狗亀吉に殺害される。三井卯吉は甲州代官
の十手持ちで、役人は支援した次郎長も捕縛の対象とした。そのため
次郎長は妻のお蝶を同行し、尾張に逃亡の旅に出た。途中、安政5年12月31日、お蝶は幅下の長兵衛宅
(現・名古屋市西区)で病死する。
お蝶療養中も安政6年元旦のお蝶の葬式にも久六は顔も出さず、金に困っていた次郎長を見捨てた久六は、
次郎長の怒りを買った。次郎長の怒りに恐れた久六は、十手持ちの役目を
悪用、次郎長一家が尾張で強盗を働いていると偽の報告をして、安政6年1月8日、次郎長を捕縛しようと
長兵衛宅を襲撃した。次郎長はうまく逃亡したが、代わりに長兵衛が捕縛され、拷問を受け、死亡した。
三河の寺津間之介一家に逃げ込んだ次郎長は、長兵衛の妻・お縫から長兵衛牢死の報告を受け、久六への
報復を決意する。

次郎長は清水から石松、八五郎、万平、喜三郎、万吉、平蔵の6人を呼び寄せた。旅同行の大政、相撲常、
鶴吉、千代吉4人を含めて11人で、伊勢湊から船で久六殺害祈願の金毘羅参拝に出かける。海路、伊勢湊に
戻った次郎長一家は久六襲撃を伊勢路で触れ回り、伊勢から陸路を桑名に向かう。しかし突然、桑名湊から
船で清水への帰還を触れ回り、清水一家は桑名湊から船に乗った。

これは久六、常滑一家を安心させる策士・大政の策略で、秘密裏に次郎長、大政、石松、八五郎4人の襲撃
部隊と偵察役の鶴吉だけは船に乗らず、陸路名古屋に向かった。鶴吉は先行し、常滑一家、久六の情報収集
を担った。偵察役の鶴吉は、大政と同じ知多半島大野出身で土地勘がある。石松と八五郎は遠州森町の同郷で、
お互い気心が知れている。久六殺害を確実に実行するには少人数の方が良い。これが選抜隊をこの4人に絞った
理由である。

有松宿に待機する次郎長ら襲撃隊に、鶴吉から久六が亀崎の相撲興行に来ているとの連絡が入る。大政は亀崎
の久六をおびき出し、乙川村はずれの一本道で待ち伏せする。場所は現在の武豊線乙川駅付近である。当時、
一帯は葦の荒れ野で待ち伏せには最適であった。

安政6年(1859年)6月19日午後2時過ぎ、次郎長、大政ら4人は、乙川村葦野畷で久六と子分ら7名を襲撃する。
前から大政と次郎長、後から石松、八五郎で挟み撃ちにした。次郎長の突きの一撃が久六の右腕、脇腹および
背中を斬りつけたが、久六は即死せず、近くの乙川村庄屋宅に逃げ込んだ。この騒ぎに多くの村人や村役人も
集まった。次郎長は村役人との斬り合いを避けて、亀崎湊に向かった。途中、乙川村のはずれで警戒中の村役
人から久六が死んだことを聞き、安心した。

次郎長は亀崎で鶴吉と落ち合う。鶴吉から逃げた久六の子分の通報で、亀崎一帯で常滑一家が追撃体制を取って
いることを知り、急遽、次郎長は亀崎湊から船による逃走を止め、急ぎ桶狭間へ逃げた。御油の源六の家などの
博徒ルートを経由し、各地で草鞋を脱ぎ、清水に帰った。清水に戻った次郎長は草津方面へ再び旅に出る。常滑
一家報復の可能性があったためである。しかしこの逃亡の旅は約半年ほどで終わった。

森の石松を騙し討ちにした都鳥吉兵衛

清水一家・森の石松をだまし討ちした都田吉兵衛は悪役博徒の代表とされる。吉兵衛の出身の都田村は、浜名湖
にそそぐ都田川に沿った村。三方ガ原古戦場にも近い。実父・源八も博徒で「火の玉の源八」と呼ばれた。子供は
吉兵衛のほかに常吉、末弟の留吉の男の兄弟がいる。長兄の吉兵衛は人柄が温厚であったので、父・源八も博徒に
は不向きと考えて浜松の紺屋へ小僧に出した。

吉兵衛は文政11年(1828年)生まれ、12歳のとき、父・源八が博徒の争いで殺された。源八の死亡で、都田一家
は散り散りになった。その後、気が短く、乱暴者の弟・常吉が一家の再興を企てた。
吉兵衛も紺屋職人から博徒に転じ、末弟の留吉を補佐役に、三兄弟で都田一家を再興した。またたく間に、遠州一
帯の縄張りを押さえ、大親分にのし上がった。その貫禄は次郎長を大きく超える親分だったという。

次郎長と対立することとなったのは、森の石松が、都田の縄張りの池新田(現・静岡県御前崎市池新田)で賭場荒
らしを行ったのを、吉兵衛一家の代貸・伊賀蔵が石松を袋叩きにし、追い出したのがキッカケである。その後、石松
は仲間を連れてきて、伊賀蔵に殴り込みをかけ、逆に叩きのめした。

石松は気が短く、喧嘩早い男。同じような性格の吉兵衛の弟・常吉とは気が合い、仲が良かった。伊賀蔵の騒動を
聞いて、常吉は石松ならやりそうなことだと笑い飛ばした。伊賀蔵は、腹の虫が収まらず、都田一家親分・吉兵衛
のもとへ行って、石松の悪口をたたきつけた。吉兵衛も自分の縄張りで暴れた石松に良い印象はない。
次郎長も子分が袋叩きにされ、吉兵衛と決着をつけるという。ここで次郎長の義兄・江尻の大熊、安東の文吉が
間に入り、和解させた。その後、万延元年4月、次郎長は保下田の久六を斬った刀を讃岐の金毘羅神社に奉納す
る。その役目を石松が買って出た。帰り道、江州草津御幸山堅太郎から次郎長の妻・お蝶の香典銀25枚を預
かった。そのまま帰れば良いもの、石松は都田一家の末弟・留吉の顔を見るため、都田一家に立ち寄った。

その頃、吉兵衛は博徒仲間の駿州大宮の年蔵の賭場に居た。この賭場に手入れがあり、年蔵が捕り方を傷つけた。
一緒にいた吉兵衛も身が危ないと草鞋を履こうと、逃亡資金工面のため、都田に戻った。
ここでばったり、石松と顔を合わせる。石松が自慢して見せた銀25枚を、少しの間貸してほしいと金をだまし
取った。
金員の返金のもつれで、石松が殺されたのは万延元年6月1日。都田一家は、次郎長報復の先手を打って30人
近い人数を船に乗せて、清水湊に殴り込みをかけた。その時、次郎長は瘧を患い、実父の美濃輪の家に居て
難を逃れた。それを知った次郎長は都田襲撃を計画も、心配した安東の文吉がまた間に入り、金で一時解決
させた。
文久元年1月15日、吉兵衛は、年始と次郎長への詫びを兼ねて清水を訪問する。安東の文吉の指導もあって、
府中から清水への入口、東海道追分の旅籠茶屋に代貸の伊賀蔵ら三人の少人数で立ち寄った。
ここで土地の博徒・沼繁と一緒となり、座敷で酒を飲んだ。

この座敷で沼繁の居候の博徒・馬鹿国といざこざが起きた。頭に来た馬鹿国は次郎長の子分に「吉兵衛が
殴り込みに来た」と告げ口をする。子分の知らせを受け、次郎長は喧嘩支度して、7~8人で茶屋に
乗り込み、吉兵衛の弁解も聞かず、吉兵衛、伊賀蔵ら3人を斬り殺した。吉兵衛34歳。次郎長は吉兵衛の
腕を斬り落とし、遠州小松の石松の墓に供えたという。

翌年の文久2年7月、都田一家の常吉・留吉兄弟は、浜北と天竜市の中間地の本沢合の博徒・為五郎を
「次郎長の身替り」として殴り込みをかけた。為五郎を殺して、兄・吉兵衛の恨みを晴らした。
ところがこの時に受けた疵がもとで常吉は翌8月21日死亡。末弟の留吉は、翌年の文久3年3月、
為五郎の弟・為蔵によって殺された。
博徒の話は一方的に善悪が決められ、相手が悪者にされやすい。講談や映画のストーリーになり易く、
庶民の受けも良いからだ。従って、過去の常識も疑う必要がある。歴史は常に勝者、生き残った者に
とって都合の良いように作られる。真実も修正主義で作り直される。都田吉兵衛も伝えられるような
悪役とは言えず、博徒としてはそれなりの人物と思われる。

荒神山の決闘博徒・穴太(あのう)徳次郎

博徒・穴太徳(または安濃徳)と言っても知っている人は少ない。義理と人情の吉良仁吉が神戸の長吉
に加担して闘死した「血煙荒神山」の相手方博徒の親分と言えば解かるだろう。天田愚庵(次郎長養子・
山本五郎)の「東海遊侠伝」では、強欲非道の博徒として書かれている。

「東海遊侠伝」は、明治17年に次郎長が賭博禁止令で収監された際、減刑嘆願書に次郎長半生記として
添付提出されたものである。当然に、次郎長は善玉の博徒、加勢した神戸(かんべ)の長吉は逃げ回る臆病者博徒
、荒神山の決闘相手方・穴太徳は強欲悪玉親分とされている。唯一、清水一家のみが勇敢に戦い抜き、
勝利へ導いたと書かれている。これは本当だろうか?実際の穴太徳を見てみよう。

穴太徳は、文政6年(1823年)員弁郡神田村穴太(現・員弁郡東員町)で生まれた。幼名は徳松と呼び、
その後、中野徳次郎と名乗った。20歳頃、桑名に出て、遊び人となり、地元の博徒・神戸屋祐蔵の配下
となる。30歳頃、博徒一家を構え、桑名江戸町で渡世を張った。

その後、穴太徳は神戸屋祐蔵の跡目を継いだ。神戸屋の地元の神戸藩はわずか1万5千石、本田伊予守
の城下町。一方、穴太徳が渡世を張る桑名宿は徳川親藩桑名藩11万3千石、松平越中守の城下町、
神戸の長吉の神戸とは比較にならない規模と裕福な縄張り。穴太徳は桑名宿に三つの賭博場を持ち、
寺銭収入はかなりの金額となる。穴太徳は桑名から美濃、尾張まで勢力を持つ大親分に成長、黒駒
勝蔵側博徒の雄となった。

博徒名  穴太徳(別名・安濃徳ともいうが穴太徳が正しい)
本名   中野徳次郎
生没年  文政6年(1823年)~明治7年(1875年)9月3日 病死 52歳

講談で有名な「血煙荒神山」荒神山の喧嘩は、同じく神戸屋祐蔵の支配下にいた神戸の長吉と穴太徳
との間で、博奕場のある高神山観音寺境内の縄張り争いである。観音寺の祭礼の際に開かれる博奕場は」
大繁盛し、祭礼時だけで千両あまりを稼ぐ「千両かすりの賭場と呼ばれた。

一方、神戸の長吉は下総国千葉郡(現・千葉市)出身、全国を流浪、伊勢の神戸屋祐蔵の配下になった
とき、すでに中年になっていた。長吉は、元治元年3月(1864年)博徒同士のいざこざで、穴太徳一派の
博徒を斬った。長吉は逃亡を余儀なくされ、地元の神戸を離れた。逃亡の間に、荒神山観音寺の賭場は
穴太徳一派が支配下に置いた。その賭場を奪還するため、長吉は兄弟分である三州・寺津間之助に助っ人
を依頼した。
荒神山の喧嘩は、慶応2年(1866年)4月8日、観音寺祭礼当日。当時、長吉は52歳、穴太徳は男盛りの
44歳。寺津間之助一家に寄宿していた清水一家の大政と子分たちと吉良仁吉一家は長吉側に加勢する
こととなった。寺津間之助は当時55歳、高齢のため吉良仁吉が間之助の代理となった。

一方、穴太徳側は、黒駒勝蔵、兄弟分三州平井一家・雲風亀吉こと平井亀吉が加勢し、実質、黒駒勝蔵、
清水次郎長の代理戦争の様相となった。戦いは一瞬で終わった。騒ぎを聞きつけて集まった神戸藩の町方、
目明したちが周囲を取り囲み、両者とも全員が一斉に逃亡した。

荒神山の戦い後、穴太徳は四国阿波へ逃亡した。黒駒勝蔵も京に逃れ、赤報隊に入隊する。穴太徳は、幕末、
維新の混乱に乗じて地元に戻った。荒神山の喧嘩の2年後が明治維新である。世の中は明治へと大きく変動。
その間、穴太徳の妻・お秀はしっかり者で子供もなく、穴太徳の留守宅をしっかり守っていた。後日、
穴太一家は仁吉の仇討ちで清水一家の総攻撃を受けたが謝罪して和解した。東海道と伊勢街道の縄張りの
裕福さに優劣の差が出たのだろう。

地元に戻って7年後、明治7年9月3日、脚気衝心で穴太徳は急死した。享年53歳。その遺体は菩提寺である
地元の専明寺に埋葬された。法名は「釋信順位」。穴太徳は強欲で人の縄張りを横取りしたわけではない。
神戸長吉が留守中に縄張りを支配下に置いただけ。地元では立派な親分として知られている。