※このページの原文は「次郎長翁を知る会」の会報、第6号より抜粋

生誕200年を超え、次郎長の魅力を探る

転 換 期

慶応4年(1868)3月、駿府藩が成立。それに伴い駿府町奉行所が廃止され、東征大総督府が駿府町差配役に任命した伏谷如水から、街道
警護役(警察署長)に任命される。次郎長はこの役を、自分の様なものがお役人になるなんてとんでもないと断ります。
しかし、伏谷如水は退かず、この役を引き受けてくれればこれまでの罪を免じると交渉します。次郎長も退かず、これで引き受けたら罪逃れ
のために役人になったと一生笑い物になるとやはり断ります。

ちょうど、徳川幕府の時代から明治時代に変わるタイミングだった時代の日本でしたから如水は、「今は徳川も薩長もなく天子様を皆でお迎え
して新しい時代を築かなければならない時代だ。己を捨てて天子様のために尽くそうとは思わないのか。清水の湊を守り、駿府、東海道の
治安を守るのは天子様のお役に経つことだ」と言葉をかけます。
その如水の熱意に打たれ、生まれ変わる転機となったその言葉を深く魂に刻みます。
そして「街道警護役」を引き受け、その後同年7月まで駿府東海道の治安に努めます。

これまで侠客として名を馳せ、その人生を歩んできた次郎長はここから180度生き方を変えていくことになったのです。


明治維新が次郎長を変えた

日本の国に大きな転機をもたらしたのは、明治維新である。これを契機に次郎長の人生にも大きな変化をなした。山岡鉄舟との出会い
が次郎長の人生を大きく転換したのである。
次郎長が鉄舟から「お前のために命を投げ出す子分は何人いるか」と問われたとき「そんな子分は一人もいません。しかし、わっしは子分
のためには、いつでも命を投げ出す覚悟はできております」と答えた。

明治になってからの次郎長は、これからは諸外国との交易が始まるので、「若い者は英語ぐらい話せなければだめだ」と、今の清水
小学校の前身である明徳舘を使って英語教師を招き、英語塾を始めた。静隆社を設立し、清水、横浜間の定期航路を開説したことも
画期的な事業であったと思う。また港を発展させるためには流通組織の整備が必要と、自ら説いてまわり、現金問屋中泉の出典を
実現させた功績も大きい。

さらに三井物産が清水に支店を開設する時にも次郎長に招待状が発せられた。地元の実力者次郎長への期待があったものと思われる。
この招待状は、現三井物産静岡支店に大切に保管されている。

その他明治維新により、世の中は大きく動いていた。
徳川幕府の世は終わり駿府には家来とその家族たちが集団で移住してきた。その多くは無縁移住者で港に上陸し粥などが用意され、
次郎長は子分たちと炊き出しに加わって救援活動をしていた。
幕臣の杉淳二は、博徒の親分が子分たちと波止場で熱心に世話をする姿を見て奇特に感じていた。
次郎長は炊き出しなどで彼らを救護し、すぐに方々に手を回して彼らの住まいを確保し、混乱をおさめました。

次郎長は失業者救済を考え、明日は我が身と開墾地探しに連れ立って有度山麓や三保を歩いた。


次郎長の人生を大きく変えた”咸臨丸事件”

明治元年9月18日突然清水港で幕府の軍艦咸臨丸は新政府軍
の攻撃を受け、20名余りが斬り殺され海に投げ込まれる事件が起きた。
「幕府側の遺体を引き上げた者は、賊軍と見做し処罰する」という禁制をおかして犠牲者を収容し、向島の次郎長の実父の土地に手厚く
埋葬した。そして官軍がやってきて次郎長の行動を咎めた時、次郎長は「たとえ敵の兵士であっても、仏になってしまえば官軍も賊軍も関係ない、
その土地の人間が供養するのが人の情けというものだ」と官軍の意向に逆らったことが噂となり、駿府藩より出頭命令が出て、出頭した次郎長は
駿府藩の松岡万に対して嘘をついたり逃げたりせず、自分のやったことを認めた上で、人の道として当たり前のことをやったまで
だと主張します。かつて幕臣であった松岡万も次郎長の主張に心打たれ、お咎めなしとします。これが「壮士墓」。この事件での次郎長の義挙は
山岡鉄舟に伝わることになりました。

中でも山岡鉄舟は「到底小人輩の出来る芸当ではない」と次郎長の侠骨を
喜び壮士墓の墓碑名を書いた。
鉄舟は「精神満腹」の大額を書き次郎長に贈った、次郎長は山岡鉄舟先生から度胸免状をもらったと喜び生涯自慢した。
まだ廃刀令が出ていないときに、四谷の家に遊びに来た次郎長に「一生の大事な時以外に抜くな」と一腰の短刀を与えた。

日露戦争で壮絶な戦死を遂げ軍神となった広瀬武夫は「次郎長は偉い男だ。人にめったに惚れない鉄舟だってゾッコン次郎長に惚れて
いる」と元子爵の海軍軍人の小笠原長生に話して紹介した。

小笠原長生は次郎長に「いったいあなたは仲間のうちで誰がいちばん偉いと思っている」と聞いたところ「それは新門辰五郎だよ」と
言下に断言し、「仲間では新門だが、わしには恩人と呼ぶ人が一人ある。この人は最も偉いと思っている人だ。山岡鉄舟先生さ」と云った。
清水湊を巴川内の河口港から外海港へと、次郎長は港の構造を廻船問屋の旦那衆に口説いていた話の相手とは、播磨屋与平すなわち
四代目与平のことで、次郎長とは親しい間柄であった。

まもなく清水の”湊”は外海の”港”に変わって行った。清水港と横浜港とを蒸気船の静岡丸が就航し、静岡産のお茶は清水港から横浜港
に運ばれてアメリカに輸出される様になった。
明治19年、東京大学医学部を卒業した植木重敏は次郎長と出会い口説かれて海岸通りに洋医の病院を開設、病院誘致だった。

次郎長はアウトローだった人物とは思えないほどに名士たちと親交し人脈が築かれ、晩年は社会事業に貢献して郷土清水の地に貴重な
足跡を残した。

「東海遊侠伝」次郎長の養子になった天田五郎(愚庵)の魂

天田五郎が山岡鉄舟に紹介されて始めて次郎長に出会い清水にやってきたのが明治11年であった。次郎長は59歳、長い渡世人の生活
から足を洗って大きく変身した時代に入っていた。三代目のおちょうは西尾藩士の娘でしっかり者で次郎長を支えていた。
このとき五郎は25歳、15歳で元服して戊辰戦争に出陣し、父母妹と生き別れになり全国を放浪しながら捜し続けていた時代であった。
鉄舟とは明治5年東京で小池詳敬から紹介されそれ以来、五郎の生涯で最大の恩人となった。鉄舟はこのとき侍従に任ぜられ、明治天皇
の側近に奉仕する身であった。

次郎長は鉄舟から頼まれて五郎を清水の自宅に寄留させた。
すでに次郎長の有力な子分の石松や小政は亡く、大政や仙右衛門は健在だった。五郎が次郎長の家に来てまず驚いたのは大仁侠だった
ことで、貴賎の別なく多くの人の出入りのおびただしいことだった。
東海道は言うまでもなく、東山北陸諸道へかけてかつて名のある者たちと親しく交際し、いずれも固く結び合い、何事もにもたがいに
救護しあう間柄だったことを知った。

五郎は次郎長の人柄から、かたときも頭から離れない父母妹のことを詳しく話した。五郎の頼みに次郎長はそれぞれの人を遣わし、また
手紙を出して探索に協力した。五郎はその恩を生涯忘れなかった。
しかし、結果は思わしくなく、五郎は世話になっている間中、次郎長の自叙伝「東海遊侠伝」を執筆した。


次郎長本人や大政、仙右衛門などの子分衆からも聞き取りそれを書き記していった。
武士の子として生まれ育てられた五郎にとって、次郎長との生活環境は珍しく驚きばかりであった。
とは云っても興味本位や好奇心だけではなかったように思われる五郎は次郎長の一大変身した本性を感じ取り、風貌や態度そして
言行などに引きつけられたのだろう。


次郎長と相良(さがら)油田の開発

相良の山に変な匂いがする水が出ているということから、山岡鉄舟の義弟石坂周蔵が、この水を見てこれは石油だと発見し、発掘が

始まったのが、相良石油開発である。この時山岡鉄舟は次郎長に手紙を出し、この開発に協力してくれる様に依頼した。この手紙は
追分羊羹の府川松太郎氏が大切に保管している。
こうして相良石油株式会社が発足したわけであるが、次郎長はこの会社の株券募集に奔走して資金集めに協力した。この株券の一部
は、本魚町の北村氏が所蔵されている。明治25年に発行されたもので、一株が二十五円(当時の貨幣価値で約25万円)という巨額のものになっている。


清水に医者を

あるとき、一人の観光客が次郎長生家を訪れ、こんな話をしてくれた。
次郎長が横浜から清水へ帰る時、船の中で一人の医者の卵と同席した。次郎長のすすめでその医者の卵は清水で下船し、開業したと言う。
「この話を知っているか」と尋ねられた。
その時、いくらなんでも東京大学医学部を卒業して故郷に錦を飾って帰れる人が、次郎長の誘いがあったからと云って、そう簡単に
清水で下船し、開業するだろうか、と信じられなかった。
ところが、次郎長はこう口説いたという。

「清水には医者が少なく、みんなが病気の時困っている。どうだろうか、高知で開業するも、清水で開業するも、人を助ける偉業に
変わりはない。ひとつ清水で開業してくれないか、もし承知してくれるなら、開業の面倒は俺が見る」
次郎長はそういって固く約束した。
医者の卵という青年の名は、植木重敏といった。何が彼を動かしたかわからないが、次郎長といっしょに船を降り、医院「済衆医院」を開業するに
至るのである。

次郎長と富士市大渕の開墾

明治七年、55歳の時、当時の静岡県知事・大迫貞清のすすめもあり、助成金二千円をもらい、向島の囚人たちを集め富士裾野(大渕)の開墾を始めます。
最初の頃は、大政が指揮をとっていましたが、大政が50歳で亡くなったため、急遽天田五郎が駆けつけ大政の後を継いで指揮をとり、次郎長の養子となった。
この次郎長が富士の開墾をしたことは有名で、しかも富士山麓バスの停留所にも「次郎長作業所前」とか「次郎長東」「次郎長」と云った

次郎長町バス停

次郎長が開墾した土地の一部がひまわり農園に

次郎長開墾記念碑

次郎長開墾記念碑文言
具合に次郎長の名を冠した地域となっている。したがって、次郎長が開墾した歴然たるものがあるが、さてそれでは何が故にこの開墾
を富士に求めたかはわかっていない。どうやら「新道天照教」との関係があるらしい。
新道天照教は次郎長開墾のすぐ上の、標高千メートルのところに現在もある。ここには、明治維新政府の重鎮西郷従道や政商高島嘉右衛門、
さらに次郎長や開祖徳田寛豊手植えの桜があり、春は桜の名所となっている。
この社は、水戸藩士で井伊大老の首をはねた桜田門外の変に関わったという徳田寛豊が開祖となって建設されたもので、開設当時は信者
も数万人、旅館、風呂屋、豆腐屋などまであって大変栄えたものらしかった。


三保の次郎長開墾

咸臨丸事件や壮士の墓については、明治の次郎長の中でも最も大きなことであるが、ここでは省略し、あまり知られていない三保開墾に
ついて。
三保に「次郎長開墾」と呼ばれるところがある。
これは次郎長が開墾した土地と聞いているが、その証拠がないものかと思っていた矢先、こんな耳寄りな話を聞いた。
三保の石野さんから、この次郎長開墾の権利書があり、場所も特定できるから是非これを記念するための碑を建てたいと言うことであった。


※上記の原文は「次郎長翁を知る会」の会報、第6号と「小松園」のホームページより抜粋