次郎長と天田愚庵

幕末から明治にかけての武人、歌人。本名、天田五郎、1881〜1884年1月17日没。磐城平藩主安藤信政の家来 甘田平太郎の五男として生まれ、幼名を久五郎といい、後に明治四年(1854)天田五郎と改めました。 明治元年(1868)、15歳で戊辰戦争に出陣、父母姉が行方不明になってしまい、以後20年間肉親を探して全国を歩いていました。その間に山岡鉄舟に知遇を受け、また任侠から足を洗った頃次郎長の養子となり、山本五郎と名乗った。

兄弟は多かったが、いずれも夭折し久五郎15歳の時は長兄、妹、二人だけであった。 次郎長が手がけていた富士山麓の開墾事業の手伝いをしていたが東京に出て写真家の弟子入りをしていたが、開墾の指揮をとっていた子分の大政が51歳で亡くなったため急遽帰った来て大政に変わって現場の指揮を取る。 以前から次郎長との生活の中で次郎長本人や子分たちから任侠時代の話を聞き取り、次郎長の数奇な人生を書き記した「東海遊侠伝」の原稿を執筆。 明治十七年、次郎長が全国一斉刈り込みで逮捕された時、この原稿を二ヶ月かけてまとめ上げ、次郎長を立派で人望が厚く、義理人情を重んじる曲がったことが嫌いない人物として表現し「助命嘆願書」とした のでした。

明治二十年(1887)、五郎三四歳のとき滴水禅師によって仏門にはいり、鉄眼と号し、明治二十五年京都清水に庵を結んで「愚庵」と名乗りました。漢詩において異彩を放ったばかりでなく、万葉調歌人としてすぐれ、 正岡子規に大きな影響を与えた。
明治三十七年(1904)1月17日、京都伏見の庵で没。享年51歳。

天田愚庵

戊辰戦争(ぼしんせんそう・明治元年〜明治2年)

王政復古を経て明治新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。 戊辰戦争は研究者によって次のように規定されている。 「日本の統一をめぐる個別領有権の連合方式と、その否定および天皇への統合を必然化する方式との戦争」(原口清)[3]、「将来の絶対主義政権をめざす天皇政権と徳川政権との戦争」慶応4年(1868年)1月2日夕方、幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃、事実上戦争が開始される。翌3日、慶喜は大坂の各国公使に対し、薩摩藩と交戦に至った旨を通告し、夜、大坂の薩摩藩邸を襲撃させる、藩邸には三万両余りの軍資金が置かれていたが、薩摩藩士・税所篤が藩邸に火を放ったうえでこれを持ち出し脱出したため、軍資金が幕府の手に渡る事は無かった。同日、京都の南郊外の鳥羽および伏見において、薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍と旧幕府軍は戦闘状態となり、ここに鳥羽・伏見の戦いが開始された。両軍の兵力は、新政府軍が約5,000人、旧幕府軍が約15,000人と言われている。 新政府軍は武器では旧幕府軍と大差なく、逆に旧幕府軍の方が最新型小銃などを装備していたが、初日は緒戦の混乱および指揮戦略の不備などにより旧幕府軍が苦戦した。また、新政府が危惧していた旧幕府軍による近江方面からの京都侵攻もなかった。翌1月4日も旧幕府軍の淀方向への後退が続き、同日、仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍と為し錦旗・節刀を与え出馬する朝命が下った。薩長軍は正式に官軍とされ、以後土佐藩も錦旗を賜って官軍に任ぜられた。逆に旧幕府勢力は賊軍と認知されるに及び、佐幕派諸藩は大いに動揺した。こういった背景により5日、藩主である老中・稲葉正邦の留守を守っていた淀藩は賊軍となった旧幕府軍の入城を受け入れず、旧幕府軍は淀城下町に放火しさらに八幡方向へ後退した。6日、旧幕府軍は八幡・山崎で新政府軍を迎え撃ったが、山崎の砲台に駐屯していた津藩が旧幕府軍への砲撃を始めた。旧幕府軍は山崎以東の京坂地域から敗北撤退し大坂に戻った。 この時点では未だに総兵力で旧幕府軍が上回っていたが、6日夜、慶喜は自軍を捨てて大坂城から少数の側近を連れ海路で江戸へ退却した。慶喜の退却により旧幕府軍は戦争目的を喪失し、各藩は戦いを停止して兵を帰した。また戦力の一部は江戸方面へと撤退した。