#博徒

歴史上の侠客

侠客とは「弱気を助け、強気を挫く」事を信条にして任侠に生きる漢たちの呼び名である。単なる「ヤクザ者」や「無法者」とは異なり、「己の中の正義」を持つ者がこのように呼ばれる。

幡随院長兵衛

幡随院 長兵衛(ばんずいん ちょうべえ、元和8年(1622年) - 慶安3年4月13日(1650年5月13日)あるいは、明暦3年7月18日(1657年8月27日)とも)は、江戸時代前期の町人。町奴の頭領で、日本の侠客の元祖ともいわれる。『極付幡随長兵衛』など歌舞伎や講談の題材となった。本名は塚本 伊太郎(つかもと いたろう)。妻は口入れ屋の娘・きん。

新場小安

新場 小安(しんば こやす、寛政2年(1790年) - 慶応元年8月5日(1865年9月24日))とは江戸時代後期の侠客、魚問屋。新場の小安として知られる。寛政2年(1790年)に江戸の日本橋にあった新肴場に生まれる。通称は伊勢屋卯之助。魚河岸の顔役と知られた。享年76。墓所は江東区深川の重願寺。法名は小安院観誉静翁信士。

黒駒勝蔵

黒駒 勝蔵(くろこまの かつぞう、1832年(天保3年) - 1871年11月26日(明治4年10月14日)?)は、幕末の侠客、尊王攘夷派の志士。本名:小池 勝蔵(こいけ かつぞう)。黒駒勝蔵は甲斐国八代郡上黒駒村若宮(現山梨県笛吹市御坂町上黒駒[1])の名主・小池嘉兵衛[2]の次男として生まれた。 幼少期には村内にそびえる神座山に鎮座する檜峯神社(ひみねじんじゃ)の神主・武藤外記が嘉永5年(1852年)に開いた私塾・振鷺堂(しんじゅどう)に学ぶ。勝蔵は後年に尊皇攘夷運動に参加していることから、武藤外記・藤太親子の国学思想に影響を受けたとする説もある[3]。

国定忠治

国定 忠治(くにさだ ちゅうじ、忠次とも、文化7年(1810年) - 嘉永3年12月21日(1851年1月22日))は、江戸時代後期の侠客である。「国定」は生地である上野国(上州)佐位郡国定村に由来し、本名は長岡忠次郎。 後に博徒となって上州から信州一帯で活動し、「盗区」として一帯を実質支配する。天保の大飢饉で農民を救済した侠客として、講談・浪曲や映画、新国劇、大衆演劇などの演劇の題材となる。「赤城の山も今宵限りか」の名文句は有名である。 群馬県伊勢崎市国定町の金城山養寿寺と群馬県伊勢崎市曲輪町の善應寺に墓がある。 現在まで残っている彼の肖像画は、足利の画家である田崎草雲の手によるもの。茶店で一度すれ違っただけだが、そのときの印象を絵に残したとされる。

大前田英五郎

大前田 英五郎(おおまえだ えいごろう、寛政5年(1793年) - 明治7年(1874年)2月26日)は、江戸時代末期に活躍した侠客。栄五郎とも書く。本姓は田島。大場久八、丹波屋伝兵衛と並び「上州系三親分」とも、新門辰五郎、江戸屋虎五郎(本名・岡安寅五郎)[1]と共に「関東の三五郎」とも呼ばれて恐れられた。昭和期に好まれ、任侠ものの映画の題材とされた。

笹川繁蔵

笹川 繁蔵(ささがわ の しげぞう、幼名:福松、本名:岩瀬繁蔵。文化7年(1810年) - 弘化4年7月4日(1847年8月14日))は江戸時代の侠客で、千賀ノ浦部屋に籍を置いた角力(力士)。講談で知られる『天保水滸伝』の同名の作中人物のモデル。天保15年8月6日、下総(しもおさ)国の大利根河原で笹川繁蔵一家と二足草鞋の飯岡の助五郎一家の大喧嘩(おおでいり)がありました。このとき、笹川方の助っ人として戦って命を落とした平手造酒(ひらてみき)が有名。

新門辰五郎

新門 辰五郎(しんもん たつごろう、寛政12年(1800年)? - 明治8年(1875年)9月19日)は、江戸時代後期の町火消の頭であり、いわゆる侠客である。 実父は飾職人・中村金八。町田仁右衛門の養子となる。娘の芳は江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の側室。「新門」は金龍山浅草寺僧坊伝法院新門辺りの責任者である事に由来する。生年月日は寛政4年3月5日(1792年4月25日という説もある)。「新門」は「しんもん」と読まれるが、当人は「あらかど」と名乗っていた、とする説がある。慶喜公の身辺警護のため静岡に来た新門辰五郎は、常磐町の浄土真宗太谷派の常光寺に止まっていた。また通りを挟んだ浄土真宗本願寺派の教覚寺には、当時静岡藩の勘定組頭を 務めた澁澤栄一が寄宿していました。辰五郎は次郎長と兄弟分の盃を交わし、また辰五郎は駿府藩行政への協力の傍ら、廃れつつあった人形浄瑠璃復興のために玉川座を再建しようと考え次郎長に協力を要請します。そして清水の米穀問屋「綿伊」の平尾という番頭がこの資金集めに奔走したといわれています。この劇場はのちに若竹座と名を改め七間街の文化芸能の中心となりました。

飯岡助五郎

飯岡 助五郎(いいおか すけごろう、寛政4年(1792年) - 安政6年4月14日[1](1859年5月16日))は、日本の侠客。本名は石渡助五郎。

会津小鉄

会津小鉄(あいづのこてつ、本名:上坂 仙吉(こうさか せんきち)、1833年7月7日(天保4年5月20日) - 1885年(明治18年)3月19日)は、京都の侠客。浪曲化され 、京山幸枝若により大ヒットした。 行友李風の『近世遊侠録』によると背中の文身は小町桜(小野小町が桜の下にいるとされる)。『文身百態』によると、はっきりはしないが初代彫宇之が関西にいた若き日の仕事とする見方がある。 1872年(明治5年)に妻(1851年?~1919年)を迎え1子を儲ける。

津向の文吉

津向の文吉は、次郎長が駆け出しの頃に文吉と和田島一家との喧嘩を仲裁したときから付き合いが始まり、次郎長の兄貴分となった博徒。次郎長より9歳年上、次郎長伝では文吉が顔を出せば、どんな大喧嘩でもぴたりと収まったという。 文吉は温厚な性格で、男盛り39歳で八丈島に島流しとなったため、あまり知られていない博徒である。しかし、細面で品のある二枚目の色男。長年の流刑暮らしで主たる抗争もなかったので長寿を全うし、畳の上で生涯を終えた幸運な博徒である。(博徒名)津向文吉、(本名)宮沢文吉、文化7年(1910年)〜明治16年(1883年)享年73歳。生家は代々村名主を勤める旧家宮沢家で、鴨狩津向村は甲斐と駿河を結ぶ富士川船運の物流拠点である。 近くには竹居安五郎(通称吃安)の滑動血てである竹井村があり、竹居安五郎とは長い間縄張り争いの構想を続けた。文吉が流刑となった2年後、長年の抗争相手だった竹居安五郎も博徒の罪で流刑となる。文吉は、明治の恩赦後、本土に帰るとすぐに次郎長の元を訪れ帰国の報告をしている。その後は、生地の鴨狩津向村で木賃宿の「つむぎ屋」を営む一方、八丈島で覚えた寺子屋に近いことや、医者の真似事しながら余生を送った。
遺訓
• 博徒は長脇差を差すべからず
• 賭博は金銀を得ることを目的とすべからず
• 負い目の客人には意見して一時勝負を手控えさせるべし
• 喧嘩訴訟はなるべく和解せしめ公平に扱うべし
• 凡そ何事の斡旋にも手数料を取るべからず。ヒマをいうなかれ
• 自分ばかり善い人になるな
• 飲酒して賭場に出入りすべからず
• 道を歩く時は肩で風を切るな

清水次郎長

清水 次郎長(しみずの じろちょう、文政3年1月1日(1820年2月14日) - 明治26年(1893年)6月12日)は、幕末・明治の侠客、博徒、実業家。本名、山本 長五郎(やまもと ちょうごろう)。米問屋山本次郎八の養子。養家没落に伴い、博徒となり,やくざ仲間で名をあげて清水に縄張りをもち、次郎長伯山と異名をとった三代目神田伯山の講談から広まり、広沢虎造の浪曲(ラジオ放送、レコード)、その映画化で「海道一の親分」として取り上げられ人気を博する。大政、小政、森の石松など、「清水二十八人衆」という屈強な子分がいたとされる。 しかし、実際次郎長が本領を発揮するのは、明治に入ってからで、新門辰五郎から街道警護役を引き継ぎ、咸臨丸事件をきっかけに実業家へと大きく舵を切る、全国にその名を轟かせかせたのは、山岡鉄舟からの依頼で次郎長に預けられた天田五郎、後の天田愚庵著の「東海遊侠伝・一名次郎長物語」が出版されてからである。その後の活躍も注目に値するもので、旧幕臣たちの救護(粥の提供、仕事探し)、富士裾野開墾、英語塾解説、 相良油田開発に尽力、清水湊を巴川から外海に移して外国船が接岸できる様に改築に協力など、静岡の近代発展に尽力しました。

吉田磯吉

吉田 磯吉(よしだ いそきち、1867年6月5日(慶応3年5月3日[1]) - 1936年1月17日)は、日本の実業家・政治家である。近代ヤクザの祖ともいわれる。

佐原喜三郎

佐原 喜三郎(さわら の きさぶろう、文化3年(1806年) - 弘化2年6月3日(1845年7月7日))は、江戸時代後期の侠客である。本名、本郷喜三郎。法名、朝日象現。

相模屋政五郎

相模屋 政五郎(さがみや まさごろう、1807年(文化4年) - 1886年(明治19年)1月13日)は、幕末から明治にかけての侠客、口入屋。通称は相政、明治になってからは、山中政次郎と名乗った。『日本鉄道請負業史』に新橋横浜間の請負人として記録された山中政次郎とは維新後の相政のことである。

田代栄助

田代 栄助(たしろ えいすけ、天保5年8月14日(1834年9月16日) - 明治18年(1885年)5月17日)は江戸時代から明治時代にかけての侠客[1]、明治初期の代言人。秩父事件では困民党の総理として無血蜂起を指揮した。

祐天 仙之助

祐天 仙之助(ゆうてん せんのすけ、文政元年(1818年)頃 - 文久3年10月15日(1863年11月25日))は、江戸時代末期(幕末)の侠客。別名山本仙之助。甲州博徒の一人。