釈 迦

गौतम सिद्धार्थ Gautama Siddhartha:ガゥタマ シッダールタ

ゴータマ・シッダールタ(釈迦)は、北インドの出身で仏教の開祖。ただし存命していた時代については紀元前7世紀、
紀元前6世紀、紀元前5世紀など複数の説があり、正確な生没年はわかっていない。

姓名はサンスクリット語の発音にに基づいた表記ではガウタマ・シッダールタ、梵:गौतम सिद्धार्थ 、パーリ語ではゴータマ・シッタダッタとも表記される。
シャーキャ(梵語:शाक्य Śākya)は、釈迦出身部族であるシャーキャ族またはその領国である。シャーキャ国を指す名称で「釈迦「はシャーキャの音写
したものである。

釈迦の父であるシュッドーナは、コーサラ国の属国であるシャーキャ国の国王で、母は隣国コーリヤの執政アヌシャーキャの娘マーヤーである。
マーヤーは出産のため里帰りの途中、カピラヴァスト郊外のルンビニで出産。伝説では釈迦はマーヤーの右脇から生まれて7歩あゆみ、右手を上に、
左手を下に向けて「天上天下唯我独尊」と言ったと言われている。

マーヤーは出産後7日後に死んだ。このこはシッダールタと名付けられ、シャーキャの都カピラヴァストにてマーヤーの娘マハープラジャーパティによって
育てられた。

シッダールタはシュッドーダの期待を一身に集め、2つの専用宮殿や贅沢な衣服、世話係、教師などを与えられ、教育と体力を身につけた16歳または
19歳で母型の従妹ヤショーダラと結婚し、跡継ぎ息子としてラーフラをもうけた。

シッダールタが出家を志すに至る過程を説明する伝説に、四門出遊の故事がある。シッダールタが初めてカピラヴァストゥ城から外出したとき、最初の外出では

老人と会い、2回めの外出では病人に会い、3回目の外出では死者に会い、この身には老いも病も死もある、との避けられない苦しみを感じた(四苦)。
4回目の外出では一人の沙門(質素、禁欲な生活探求者)に出会い、老いと死にとらわれない違った生き方を知り、出家の意志を持つようになった。

「なぜ私は、みずから生の法(ダルマ)を有する者でありながら生まれるものを求め、
みずから老の法を有する者でありながら老いるものを求め、みずから病の法を有する者で
ありながら病めるものを求め、みずから死の法を有する者でありながら死ぬものを求め、
みずから憂の法を有する者でありながら憂いを求め、 みずから煩悩の法を有する者で
ありながら煩悩を求めているのだろうかと。」


シッダールタは王族として安逸な生活に飽き足らず、また人生の無常や苦を痛感し、人生の真実を追求しようと志して29歳で出家した。ラーフラが生まれた間もない頃
深夜に城を抜け出した。

当時の大国であったマガダ国のラージャグリハを訪れたとき、ビンザーラ王に出家を思いとどまるよう進められたがこれを断った。
またバッカバ仙人を訪れ、その苦行を観察するも、バッカバは死後に天上に生まれ変わることを最終的な目標としていたので、天上界の幸いも尽きればまた六道に輪廻すると
悟った。

シッダールタは、次に教えを受けたアーラーラ・カーラーマの境地(無所有処定)およびウッダカラーマ・プッタの境地(非想非非想処定)と同じ境地に達した、これらを
究極の境地として満足することができず、またこれらでは人の煩悩を救ったり真の悟りをえることはできないと覚った。
この三人の師はシッダールタの優れた資質を知って後継者としたいと願ったが、シッダールタはこれらのすべては悟りを得る道ではないとして辞し、彼らのもとを去った。

ウルヴェーラーの林に入ると、父のシュッドーナはシッダールタの警護も兼ねて五人の沙門(質素、禁欲な生活探求者)を同行させた。

「私はこれらの辛い苦行によっても、人法を超えた聖なる智見殊勝を証得しなかった。
菩提のためには、別の道があるのではないだろうか」


しかしスジャータの施しを得たことで(乳粥供養)、過度の不適切であるのと同様に、極端な苦行も不適切であると悟ってシッダールタは苦行をやめた(苦行放棄)、
その際、五人の沙門はシッダールタを墜落者と誹り、彼をおいてワーラーナシーのサルナートへ去った。

25歳のシッダールタは、ガヤー県内のナイランジャナー川で沐浴したあと、村娘の スジャータから乳粥の布施を受け、体力を回復してピッパラ樹のしたに座して瞑想に
入り、悟りに達してブッダとなった。

解脱したとき、「解脱した」という智が生じました。
「生は尽きた。梵行は完成した。なされるべきことはなされた。
二度とこのような状態へ(至ることは)ない」と了知したのです。


その後、7日目までシッダールタはそこに座ったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起と十二因縁を悟った。8日目にニグローダ樹の下に行き7日間、
さらにラージャナタナ樹の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。

22日目になり再びニグローダ樹下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかを考えた。その結果、「この真理は世間の常識に逆行するものであり、
法を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうから、語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。

ところが梵天サハンパティが現れ、衆生に説くよう強く請われた(梵天勧請)。3度の勧請の末、シッダールタは世の中には煩悩の汚れも少ない者もいるだろうから、
そういった者たちについては教えを解けば理解できるだろうとして開教を決意した。

シッダールタはまず、修行時代のかつての師匠のアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタに教えを解こうとしたが、二人はすでに死去していたことを知ると、
ともに苦行をしていた5人の沙門に対して中道、四諦と八正道を説いた。5人は、当初はシッダールタは苦行やめたとして蔑んでいたが説法を聞くうちに解脱した。
最初の阿羅漢はコンダンニャであった。

法を説き終えた結果、世界には6人の阿羅漢が存在した。

ヒンドゥー教における仏教

仏教とヒンドゥー教の違い
ヒンドゥー教内の伝統の多様性のため、ヴェーダ伝統の参照内には、釈迦の正確な位置づけへの明確な観点あるいは総意は存在しない。だが、ヒンドゥー教の伝統の
多くに於いては、ブッダをダシャーヴァターラ(神の十化身)として知られる最も重要な10の化身の最も新しい(9番目の)化身を演じさせている。これは大乗仏教の
教義がヒンドゥー教に取り込まれ、ヒンドゥー教の1宗派として仏教が扱われるようになったためである。後述の通り、偉大なるヴェーダ聖典を悪人から遠ざけるために、
敢えて偽の宗教である仏教を広め、人々を混乱させるために出現したとされた。

仏教徒のダシャラタ・ジャータカ(ジャータカ・アッタカター461)は菩薩・偉大な叡智の至高なるダルマの王としてのブッダの前世としてラーマを描写している。ブッダの
教えはヴェーダの権威を否定し、したがって仏教は一般的に正統的ヒンドゥー教の見解からナースティカ(異端、語源的には「存在しないna astiと主張する者 」)
の派と見られた。
ガンディーを含む、現代ヒンドゥー教における革命者の多くは、釈迦の生涯と教えとその試みられた改革の多くに霊感を受けた。
仏教年譜と日本の歴史
四諦・八正道・六波羅蜜
「六 道」ブ ッ ダ の 教え
नागार्जुन ナーガールジュナ
वदत्त 提婆達多
一 切 法(Sarva-Dharmma)