「六道とは」釈迦の説いた教え

地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道とは

◯ 日々の暮らしの中で自分だけが苦しいと愚痴ばかり言ってる人は「地獄道」に生きている。

◯ 日々の暮らしの中で強欲にむさぼっているばかりの人は「餓鬼道」に生きている。

◯ 日々の暮らしの中で騙したり、愚かな生き方(愚痴)の中に生きている人は「畜生道」に生きている

◯ 日々の暮らしの中で怒りの中で常に人と争って生きている人は「修羅道」に生きている。

◯ 日々の暮らしの中で自己中心的な分別に迷っている人は「人道」に生きている。

◯ 日々の暮らしの中で楽しいことにふけっている人は「天道」に生きている。


人は死後、生前の行いから六つの世界に分けられると言われていますが、実はこれは死後の輪廻の話
ではなくて「今の私のあり方」についてお釈迦様が「あなたは今どのような生き方をしていますか?」
と問いかけた話です。

この中で人の分別(ふんべつ)が怒りや愚痴やむさぼり、苦しみの元になります。また分別が楽しいという気持ち
にもさせますが、「明日また仕事だ」となれば「苦」に退転します。

つまり「人」がする分別を「虚妄分別(もほうふんべつ)」といって、「自己中」であるかぎり正しい観点から正確な
分別ができないので「人は六道を日々巡っている」のです。

この「虚妄分裂」から脱出することを「解脱」といい、正しい思考を身につける、これを「真智無分別智」
と言います。

「分別を超えること」は「出来事に良し悪し、好き嫌い、などの分別をしないこと」です。
「健康と病気」「お金持ちと貧乏」「生と死」では人は誰しも前者を選びますが、しかしながら「後者」
の方が人を育てたり、実は得る物事があったりすることも多いのです。

そういう意味で「六道」に表されるような「人(虚妄分裂)」から「解脱」することを「さとり」と言い
ますから身体的な「人間」を辞めるのではなく、精神的な人から「解き放たれる」ことを言っているのです。
そういう意味では「人間界を辞めること」になります。

言い換えると「人間」をやめるのではなく、精神的な「次元の変化」が起こってくるということです。

仏教における「輪廻転生」とは

輪廻転生とはサンスクリット語でサンサーラ(संसार )に由来する用語で、命あるものが何度でも転生し、人だけでなく動物も含めた生類として生まれ変わること、「生まれ変わり」は大多数のインド哲学における根本教義である。
インド哲学でのサンサーラ概念は、ヴェーダ以降の文献に根ざしており、理論はヴェーダ辞典では議論されていない。サンサーラ教義の完全な解脱が記載されるのは、仏教やジャイナ教などの沙門宗教や、紀元前1千年紀半以降のヒンドゥー教のさまざまな学派である。

これによれば生物らは、死して後、生前の行為つまりカルマ(梵: karman)の結果、次の多様な生存となって生まれ変わるとされる。命あるものは何度も転生し、人だけでなく動物なども含めた生類として生まれ変わる。
サンサーラからの解放は、モークシャ(解脱)、ニルヴァーナ(涅槃)、ムクティ(脱;Mukti)、カイヴァリヤ(独存;kaivalya)と呼ばれる。インドの思想では、限りなく生と死を繰り返す輪廻の生存を苦と見、二度と再生を繰り返すことのない輪廻からの解放を最高の理想とする。

仏教においても、、伝統的に輪廻が教義の前提となっており、輪廻を苦と捉え、輪廻から解脱することを目的とする。仏教では輪廻において主体となるべき我、永遠不変の魂は想定しない(無我)。この点で、輪廻における主体として、永遠不滅の我(アートマン)を想定する他のインドの宗教と異なっている。

仏教における輪廻とは、単なる物質には存在しない、認識という働きの移転である。心とは認識のエネルギーの連続に、仮に名付けたものであり、自我とはそこから生じる錯覚にすぎないため、輪廻における、単立常住の主体(霊魂)は否定される。

仏教とヒンドゥー教の違い