空・शून्य

シューニャ
「空」は、仏教思想において最も重要な教えで、空は無と有、否定と肯定の両方の意味を持つが、世間では
「から、あき、むなしい」などの意味で把握されて、「無」の面だけが強調される傾向にあります。

「空」は梵語{シューニャ)の訳語で、よく「無」とも漢訳されます。

しかし、その語根「シュヴィ」は「膨れる、成長する」の意味を持ち、たとえばサッカーのボールは外面的に
膨らんでいても、内面的には空(から)の状態です。インド数字のゼロも、言語は「シューニャ」なのです。

インド数学の「0」もシューニャといい、ゼロは+(プラス)、−(マイナス)両方になる可能性を持っていて。
我々人間という個的存在も、肉体、精神の諸要素から成る点では「膨らんだもの」ですが、一方、芯となる
自己の本質、我(が)を見出せない点からすれば「うつろな、非実態的存在」なのです。

禅者は、その「空」を象徴的に円で表現するが、単に、非存在、空白だけを意味すると誤解してはなりません。

インドに二〜三世紀ごろ在世し「般若経」を中心に空の哲学を大成したナーガールジュナ(龍樹)は、縁起思想に
もとづいて「空」を理解しました。
「此れあれば彼あり、此れ生ずれば彼生ず・・・・・・」という成句に示される縁起の意味は、ものはすべて、なんらか
の他に依存して存在する相対的なものでしかないこと、絶対的存在は決してありえないことを教えています。

この絶対的、実体的存在(自性(じしょう))が無いことを「空」という。すべては空であって、夢・幻の如きもの
であって、本来、聖でも俗でもないものを「空」という。すべては空であって、夢、幻の如きものである。本来、聖
とか俗とか判断するのは、自己の心の区別、分別(ふんべつ)作用で、聖も俗も言語上の区別にすぎず、空という点
では両者は不二なのです。

ものは、すべて、縁起の理論で無と否定されるが、否定されて無に帰してしまうのでなく、そのまま、縁起的には
有として肯定される、という両面をもった存在です。

 そうであれば、自己主張の真・正・善性を標榜し、他を排除するところに闘争がくりかえされる現代の世相を思うに、
絶対性を否定し、執着からの解放を教える「空」の考え方こそ、顧みられるべきではないでしょうか。 

         
仏教年譜と日本の歴史
                 
                 
「六 道」ブ ッ ダ の 教え
नागार्जुन ナーガールジュナ
वदत्त 提婆達多
一 切 法(Sarva-Dharmma)