般若心経では、観察の象徴である観自在菩薩が、智慧第一の舎利子(シャーリープトラ)に対して説法をします。
二万五千頌般若経では、釈尊が舎利子に説法していますので、そこが違っています。

観自在菩薩は、実在する人物ではなく、架空の存在です。
文殊菩薩が智慧を象徴し、弥勒菩薩が慈悲、普賢菩薩が実践を象徴するように、観自在菩薩は、智慧によって観察することを象徴しています。

舎利子は、教団の中で智慧第一と呼ばれた高弟子です。「観自在菩薩が舎利子に説法をする」という設定から分かることは、舎利子が瞑想中に 智慧によって真理を観察しているときに、気づいた内容を表しているということです。
よって、私たちも、舎利子にならって、真理を観察することによって、智慧を完成させることができるということでしょう。

色 不 異 空 。空 不 異 色 。

「色不異空、空不異色(しきふいくう、くうふいしき)」とは、「色不異空、空不異色(しきふいくう、くうふいしき)
とは「形あるものは空であり、空なるものが形あるものを構成している」という意味。 つまり、形あるものは、絶えず変化し、やがて消滅して空に 帰するということを表しています。
ここでの「色」は、認識の対象となる物質的存在の総称と言えます。

色 即 是 空 。空 即 是 色 。

「色即是空」とは、「物、それは空である」ということです。「色不異空」の段階だと、色と空とは別の概念でしたが、
ここでは、そういう概念を超えて、色と空との一致が説かれています。「それを見て空だと観察する」のではなく、
一切を空だととらえ切ることです。
このことは、言葉によって説かれていますが、究極の真理だといわれています。いわゆる、「真諦」「第一義諦」です。
よって、考えて分かること ではなく、瞑想によって得ることのできることです。

「空即是色」とは、「空、それは物である」ということです。空と物とは一致していますから、空という真理が物を成り
立たせています。よって、物を見ることによって空を覚れるということです。

たとえば、釈尊は言葉によって真理を伝えました。言葉では表すことのできない真理を、言葉によって理解できるようにと導いたのです。「空」と いうのは言葉ですから、この言葉だけでは、ほとんど何も分かりません。

そこで仏教では、「一切有爲法 如夢幻泡影 如露亦如電 應作如是觀」(一切の因縁によって作られた存在は、夢・幻・泡・影のようであり 露のようであり、雷のようである。まさに、このように観察するべきです)と説いて、真理へと導きました。つまり、比喩・体験談・語源説明を 巧みに用いて、人々が真理を覚れるように導いたのです。

仏教では、言葉によって真理へと導くこと、すなわち方便を重視します。方便とは、「方法」のことです。真理へと導く方法を方便といいます。しかし、真理というものは、すべての事象を成り立たせていますから、リンゴを観察することによって、犬を観察することによって、水を観察することによって、真理を知ることが出来ます。そうなると、自分自身をよく観察すれば、真理に目覚めることが可能だと分かります。

よって、「空即是色」とは、空と物とは一体なので、物を通して真理を覚れ、という教えです。「色即是空」は真諦であり、「空即是色」は、世俗諦です。真諦は、真理そのもののことですが、世俗諦は、真理を世俗に分かるように示すことだからです。つまり、現象はすべて方便だということです。

般若心経では、色のことが詳しく説かれていますが、受想行識についても同じです。心は、現象なので、心をよく観察すれば、空を覚ることができます。現象はすべて方便なのだから、「一切の因縁によって作られた存在は、空であると観察しなさい」と説くのが、ここまでの内容です。

不 生 不 滅 。不 垢 不 浄 。不 増 不 減

次に、特徴について説かれています。「あの人は背が高い」「あの人は美人だ」「あの人は色が白い」などと、私たちは、人を見て判断します。それは、特徴を観ているのですが、特徴とは他と比べることによって認識されるので、そのもの自体には固定した特徴は何もありません。
よって、もし、地球に一人しかいない場合は、「背が高い」「美人」「色が白い」などの特徴を観ることはできません。

また、すべては空なので、生じる・滅する、汚れる・浄い、増える・減るなどの特徴はありません。
そのような見方は否定されます。よって、「不生不滅。不垢不浄。不増不減」だと説かれています。

中国では、特徴を「相」と訳し、相を否定して「無相」といいます。空は、非有非無の中道であり、無相は不生不滅の中道を代表としています。
ここまでで、空と無相を観察しなさい、と説いています。

「是故空中。無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界乃至無意識界。
無無明亦無無明尽。乃至無老死亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得。以無所得」

ここでは、大乗仏教徒たちの論敵である説一切有部(仏滅後分裂した宗派の一つ)の仏教の解釈を否定しています。

説一切有部は、一切法(五蘊・十二処・十八界)が有ると論じましたが、大乗は、一切法は空であると反論しました。
その反論内容が、ここに説かれています。また、十二因縁や四諦や覚りについても、否定しています。ここで、般若心経が説いていることは、
「如来の説いた真理は、真理ではない」ということです。つまり、すべての教えは、方便なので、それは世俗諦であって、真諦ではありません。言葉で説かれた内容は、真理ではないので、最終的には、教えへの執着から離れる必要があります。

ここでは、説一切有部への反論のスタイルをとって、言葉への執着を断つことが説かれています。もちろん、初心者の場合には、教えを学ぶ必要があるので、言葉への執着を断て、とは教えません。このことを教えるのは、最終段階の修行者に対してです。般若心経の説法の相手が、智慧第一の舎利子であることからも、そのことは理解できます。よって、この「是故空中~以無所得」のところは、早合点せず、じっくりと思惟することが大事です。

「空中においては」と最初にありますので、空の理をベースにしないと、ここでの説法は理解できません。よって、浅く読んだ人は、「般若心経は、釈尊の説かれた教えを否定している。おかしい!」という結論を出してしまうことになってしまいます。

また、「無~」という言葉がたくさん出てきますが、これは「無い」という意味ではなく、否定のことです。「無色」というと、「物は否定される」という意味です。
「物が有る」と言っても、「物が無い」と言っても、聞いた人はそのことに執着してしまいます。般若心経の目的は、一切への無執着なのですから、有についても説かないし、無についても説きません。非有非無の中道を説きます。つまり、空をベースにしています。

「故菩提薩埵依般若波羅蜜多。故心無罣礙。無罣礙故無有恐怖。
遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃」

これは、「菩薩は、智慧の完成によって、心には執着がない。執着がないので、恐怖は無く、一切の誤った考え、妄想から離れており、究めて涅槃に入っている」という意味です。

空・無相を覚れば、執着の対象はありませんから、執着をもとにする煩悩は滅し、過去への後悔・未来への不安・恐怖は消え、誤った思想や妄想から離れます。そして、修行が進めば、涅槃に入ります。涅槃とは、智慧の完成、成仏の境地です。

「三世諸仏。依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提」

「過去・未来・現在の諸仏は、般若波羅蜜多という真言によって最高の覚りを得た」。
ここにある般若波羅蜜多とは、智慧の完成と訳される言葉ではなく、真言として示されています。
般若波羅蜜多という真言によって、諸仏は最高の覚りを得たというのです。

ただし、般若心経では、最後にある真言を指しているようです。

「故知般若波羅蜜多是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。能除一切苦。
真実不虚。故説般若波羅蜜多呪」

以上のことから、般若波羅蜜多は大いなる真言であり、大いなる智慧の真言であり、この上のない真言であり、
他と比べることのできない真言であり、この真言によって一切の苦を除くといいます。

般若心経には、最初に、「度一切苦厄」とあり、最後に「能除一切苦」とあるため、般若心経を唱えれば一切の苦が除かれると
思っている人がいますが、般若心経で伝えていることは、智慧を開けば執着から離れられるので、心が自由になれる、ということです。
仏教では、不自由のことを苦といいますので、心が自由になるということは苦から脱したことになります。

こうして、最後に真言が説かれます。「即説呪曰。羯諦羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提薩婆訶」です。
「行こう 行こう 向こう岸へと行こう 完全に向こう岸へと行こう 覚りよ 幸あれ」という意味ですが、意味よりも音が重要視されています。「ギャーテー ギャーテー ハーラーギャーテー ハラソーギャーテー ボージーソワカ」です。
サンスクリット語では「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガーテー ボーディー スヴァハー」
仏教年譜と日本の歴史
四諦・八正道・六波羅蜜
नागार्जुन ナーガールジュナ