仏 教 に お け る 「神 भगवान」

〜 仏 教 〜


仏教は、本来は神のような信仰対象持たない宗教というよりは「心理学」「哲学」に近い思想集団で、仏陀直伝の原始仏教は
煩悩から解き放たれた涅槃の境地に至るための実践の道であり、超越的な存在を信仰するものではなかった。

現在では神と同じように崇拝されている開祖のゴータマ・シッダールタも、神を崇拝することを自分の宗教に含めず、また自分を
神として崇拝することを許さなかった。

時代が下がるにつれ、仏陀のような偉大な先人が悟りを得たものを(仏)として尊敬を集め、崇拝されるようになり、仏教は
多神教的な色彩を帯びていったのでした。

仏教にはヒンドゥー教の神が含まれ、中国の神も含まれ、日本に来てからは神道と混ざり合い、仏教が様々な地域に浸透して
いく中で、現地の神々あるいは仏の本地垂迹(ほんじすいじゃく)として、あるいは護法善神として取り込んで行ったのです。

したがって、仏教も一部の宗派では神は仏より下位にあって仏法を守護するものと位置づけ、ある面では仏自体も有神教の
神と同じ機能を果たしています。

日本の神社で弁財天として祀られている神も、そもそもは仏教の護法神(天部の仏)として取り込まれたヒンドゥー教の
女神サラスヴァティーであり、仏教とともに日本に伝わったものなのです。
因みに七福神の出身地は、
大黒天・・出身はインドでマハーカーラと呼ばれるヒンズー教の神。
毘沙門天・・インド出身、ヒンズー教で財宝を司るクペーラ。
弁財天・・インド出身、ヒンズー教で水と豊穣を司る女神「サラスヴァティー」
福禄寿・・中国出身、元は道教の神、三徳と呼ばれる子孫繁栄、財産、健康長寿を司る神。
寿老人・・中国出身、道教の神、南極星の化身で福禄寿とは双子とも同一人物とも。
布袋・・中国出身、実在する禅僧をモデルとしている。弥勒菩薩の化身で、開運を司る。
恵比寿・・日本出身、「古事記」や「日本書紀」に出てくる国つくりの神、イザナギノミコトとイザナミのミコトの子供とされ、後に商業や漁業の神。


〜 仏 教 に お け る 神 〜


仏教を考える場合、釈尊の教えとそれを継承していった教団のレベルと、土着信仰を取り込んだ民衆レベルとを混同しないで
それぞれについて議論する必要があります。

釈尊は、人間を超えた存在としての神に関しては不可知論の立場に立ち、ヴェーダーンタ(古代インド哲学の主流)の宗教を否定・
捨てた人であるという主張もあります。

一方で、釈尊は人間を超えた存在(非人格的)を認めており、ただ単にその理解の仕方がキリスト教やヒンドゥー教
などの人格神とは異なるだけという意見もあります。

浄土真宗の親鸞は、和讃において「阿弥陀の浄土に 帰しぬればすなわち諸仏に 帰するなり」と説いており、阿弥陀如来に帰依
すれば、あらゆる神仏に帰依するものとしています。

現代日本では仏教はもっぱら霊魂の永遠不滅を前提とした葬式を扱う宗教と見られていることが多いですが、古代インドの部派仏教
では死後の魂(アートマン)のようなものを否定する部派も存在し、現代日本においても無霊魂説を前提に仏教は無神論であると
考える学者や僧侶は存在します。

ここにおいても民衆の信仰の形とは大きな差異があります。釈尊は、自己の魂(アートマン)が死後も残るかとの議論に対し、回答
しない(無記)という態度をとりましたが、この態度は、アートマンが残り輪廻するというヴェーダーンタの宗教を拒否しているとも
受け取られた。

古代インドの宗教的な文書(ヴェーダ)では、すべての神々は梵(ブラフマン)から発生したと見なされており、仏典の「梵天勧請」
の説話には、釈尊が悟った後、「悟りは微妙であり、欲に縛られた俗人には理解できない。布教は無駄である。」として沈黙していた
ので、神(デーバ)の一人である梵天(ブラフマン)が心配してやって来て「俗人にもいろいろな人がいるので、悟った心理を布教
するよう」にと勧めて要請し、釈尊がそれを受け入れたという物語が残っています。

日本では死亡を「成仏」と、死者を「仏(ほとけ」と呼称しますが、この場合の仏とは、参拝しご利益を祈願する対象であって、
かつての原始仏教でそうであったような「教えを学び、悟る、覚醒する」という対象から大きくはなれてしまっています。

〜 ブッダ(仏)と神 〜


一般に、仏教では解脱には無用なので神の存在を扱わない。

なお大乗仏典の華厳経には、人間がこの世で経験するどのようなことも全て神のみ業であるとの考え方は、良いことも悪い
ことも全て神によるのみとなって、人々に希望や努力がなくなり世の中の進歩や改良が無くなってしまうので正しくないと
説かれているが、これは神の存否について議論したものというわけではありません。
仏教年譜と日本の歴史

    
色 即 是 空