次 郎 長 の 野 望

侠客の次郎長が救済に動いた

明治維新後、次郎長は駿府町差配役の元浜松藩士 伏谷如水から、清水港沿道警固役を突然仰せつかり、
駿府の町と清水港の治安維持を約三ヶ月努めたことで、時代が移り変わろうとしていることを実感したのだろう。
徳川幕府が倒れたとき多くの幕臣たちは路頭に迷い、すべてを失い収入はとだえ困窮して、無縁移住者となって
幕府の用意した船で清水湊に上陸した。
次郎長は波止場で無縁移住者たちに粥を配ったり、仮住まいのところを世話するなどの救済を子分たちと行った。

次郎長はもともと柔軟な知性がそなわっていて、先を見越していたかのように無縁移住者の授産授業を考え、
旧幕臣の杉淳二(統計の始祖、最初に統計書をつくった)と三保や有度山麓の開墾地を探し歩いた。
しかしこれらは実現できなかったが、富士裾野の開墾は県令大迫貞清や山岡鉄舟の指導と援助で実現し、
十年間事業を行ったが牧の原開墾のようには行かなかった。

次郎長の先見性と行動力には驚くばかりだった。
先を読む感の鋭さやエネルギーはどこから来ているのだろうか。
考えてみると、次郎長が博徒として世に出た時期は幕府の権力が衰退し世の中は不安定なときであった。
幕末で幕府権力がゆるくなり、旗本や代官は落ちぶれていたが、一方で地方の農山村や港や宿場などで
庶民たちは世の中をうまく生きていた。この時代背景が影響していたのではないか。

次郎長の博徒としての野望はなかった

吉良の仁吉の仇討ちや森の石松の仇討ちなど争いの殆どが復習的精神が主流にあった。義理を重んじ子分たち
を大切にしたから、次郎長は任侠の鏡のように時の権力者たちに取り上げられた面があった。
明治の文豪、幸田露伴は博徒を素材にした講談について「講釈師たちは悪政に虐げられた民衆が、これらの人物の
行動を美化して救世主にまつり上げ、生きるささえにしていったのではないか」と書いている。次郎長物の講談は民衆の
心をつかみ人気を博して、次郎長はヒーローのような存在だった。

その次郎長を幸田露伴は次のように評価している。「第一流に居る者は大低穏やかな、思慮も大きく落ち着きもある
人間である。次郎長の如きは賭場を或るところで開くと、勝った人が大金を持って帰ると途中に危険が多い、それを
次郎長が心配して危険の無いように子分の勇者で守らせたり客人にいろいろと世話をしたので、益々侠客の名が
高まっていった。そんな華々しいところはないが、やっぱり大勢の子分たち親分として立てられるには、それ相応の
力量と人格がなければならない。」と度量の広さを褒めている。

次郎長は親分として子分を人前では叱らなかった。子分への情感は厚かったから、子分たちも親分のためと見を投ずる
ことも辞さないほどの固い絆で結ばれたいた。

侠客の正道を歩んだ

武士に武士道があったように侠客には侠客道があった。
次郎長には博徒発生の「強気を挫き弱気を扶く」の義侠心が伝統精神として脈々と流れていた。山岡鉄舟はそれを早く
から見抜き「精神満腹」の書を贈った。

次郎長は明治維新という大転換期に多くの人たちと巡り合った。あれほどの人物たちと、知り合い交流を深めあった
侠客は他にはいない。驚くばかりで珍しい。

次郎長は侠客の正道を歩んでいたからだと思う。壮士墓境内に建つ「是真侠魂」碑は、元子爵で海軍軍人の小笠原長生
が次郎長に贈った語で任侠魂を如実に物語っている。

次郎長はいつでもどんなときでも、権力に媚びず公平で庶民の視点であったことは確かだ。

上記記事は、
「次郎長翁を知る会」会報40号、次郎長生誕200年、「明治維新の次郎長とコロナ禍が重なって」より抜粋

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